土鍋屋
もうすぐ昼だっていうのに人が多すぎる。駅前なんか特に。
広がって歩く女子高生や、肩に激突してまでも追い越すサラリーマン。服装問わず、みんな揃って他人に興味が無い。
私も傍から見れば頭悪そうな大学生なんだろうけど。
(……えっ)
脇目もふらず人波に流されていればよかった。
何気なく目をやった細い路地。メインストリートを外れれば、閑静を通り越して住所不定者がごろごろするくらいの治安になる。
白い杖をついた人が、道端でラリってるホームレスに向かっていた。
立ち止まったせいで後ろからぶつかられる。ああもう。
「あの! そっち危ないです!」
駆け寄るほど優しくもないから声をかけた。どうせトンでる中毒者には聞こえない。
白杖の人が振り向いた。
意外と若い男の人で、ニットキャップから出た長めの髪が跳ねている。捲っているとはいえシャツも長袖だし暑そう。
彼が自分かな? と首を傾げた時、ホームレスが奇声を発した。
「大通りこっちです」
だいたいの事態を察した彼がやって来た。不謹慎だけど、一回呼びかけただけで正確に私の位置を把握したことに、結構びっくりした。本当に耳が良いんだ。
「いやあ助かりました。えっと、お姉さん?」
男の人は関西っぽいイントネーションだった。
「とんでもないです。あと私の方が多分年下ですよ」
彼が頬をかいた左手に指輪が光っていたから。
「そうなん? 学生さんかな」
「あ、はい」
ゆるい研究室にぐだぐだ登校して喋って帰っていますとは言わないでおこう。
「じゃあちょっと聞いてもええ? この辺に土鍋屋とかあらへん?」
四年くらい通っているけど心当たりが全く無い。しかもこの季節に鍋か。
「ちょっとわかんないです……お店の名前とかは?」
スマホを取り出しながら聞くと、お兄さんはうーんと唸り
「忘れてもうて」
ニット帽ごと髪をぐしゃっとした。
手掛かりゼロか。
(……一応ネットで調べたけど全然ヒットしないな)
出番が終わったスマホをポケットに突っ込む。あ、その前に研究室メンバーに聞いとこう。
「なんかこう、入り口が暖簾と引き戸でめっちゃ和風なんやけど」
「来たことあるんですか?」
「一回な。けど道とかえらい変わっててなあ」
「ちなみにどのあたりでした?」
「えーと階段降りて……」
話を聞く限りニアミスっぽい。すぐ近くだし、急ぐような研究もしていない。
「そこならご案内しますよ」
□■□
「場所的にはここなんですけど……小箱堂で合ってます?」
「なんかちゃう気が……」
「ですよね」
鍋のなの字もなかった。和風だけど普通の定食屋。
「いらっしゃいませー!」
店の前で突っ立っていたのが悪いんだけれど、仲居さんが出て来てしまった。色白でふわっとした大和撫子だった。
「あーすんまへん。土鍋屋探してるんですけど、お宅やってらっしゃいます?」
「申し訳ございません。こちらでは鍋のお取り扱いは……」
「「ですよねー」」
美人を困らせてしまった。
会釈をして去ろうとした時、あの、と仲居さんに呼び止められた。
「少々お待ちください」
彼女は、私達を軒先に並んだ椅子へ座るよう促して店へ引っ込んだ。
「なんでしょう。あ、ちょっと右側失礼しますね。ここです」
軽くお兄さんの腕を引いて席に触れさせる。なんかの授業で、目の不自由な方はいきなり触られると驚くとか習った気がする。
「おおきに」
彼が座った時、仲居さんがお盆を持って帰って来た。
「よろしかったらどうぞ」
湯呑みと小皿が二つずつあり、それぞれ配られた。小鉢には漬け物らしき橙色が乗っている。
「……人参やろか?」
「ええ。こちらは——」
仲居さんがお兄さんに軽く説明をしていたけれど、私は麦茶を口にする前に立ち上がった。
「あの、もう行きましょう」
□■□
杖が地面を叩く規則的な音が、大きくはない通りに響いていた。
「急にどうしたん?」
「……さっきのお茶請け、どう見ても生ゴミでした」
普通するだろうか。ありえない。
「ああ、知っとったよ」
当の本人はケロリとしていた。
「ようあることやし。相手にしとったらキリ無いからなあ。
気い使わせてすまへんな」
声ばかりが明るく聞こえる。前を向いた彼の、帽子に隠れた表情はうかがい知れなかった。
「お兄さんが謝ることじゃないです。あの店が悪い」
うっかり語気が荒くなってしまった。ぶつける相手を間違えているとしか言いようがない。
そんな私を見下ろして彼は穏やかに笑った。
「君は、ほんまに優しい子やね」
合うはずのない目が合った気がした。
自分の子どもを褒める時もこんな感じなのかな。ちょっと照れるというか、恥ずかしいというか。
「い、いえ別にそんな……あっ」
考え無しに道を戻っていたら、無地の暖簾がかかった引き戸を見つけた。
来た方向からは振り返らないと気付けない。
「どないしたん?」
「あっちにそれっぽいお店が……」
「ほんま!?」
近づくと、お品書きの欄に鍋の文字が見える。
「ここじゃないですか? 鍋もやってますし」
「せやね! こんな匂いやったし。
ほんまおおきに! すまんかったなあ」
「とんでもないです」
なんていうお店なんだろう。あとで調べよう。
「あー……迷惑やなかったら、お礼にごちそうしたいんやけど」
「え。お連れ様は?」
「おらへんよ」
「そうなんですか……」
たしかにお昼時でお腹的にはいい感じだけれど。ほぼ見ず知らずの、しかも男ってちょっとマズいんじゃ……悪い人には見えないけど……。
口籠る私に、お兄さんが慌てて付け足した。
「すまんすまん! 無理強いなんてせえへんよ、それじゃお礼にならんし! つーか普通にこんなムサいのと飯なんてご免やね!」
にゃはは、なんておどけるから、つい。
「じゃ、じゃあお願いします! お言葉に甘えて!」
□■□
二人で使うにはだいぶ広い、畳が十枚以上ある部屋に通された。壁も殺風景で、入り口近くの障子が嵌め込まれ丸窓が一カ所だけ。閉塞感は無いけれど。
四人用の大きなテーブルだけが端っこにあった。
「|指輪《これ》も舐められんようにしとるんよ」
「えっ? てっきりご結婚なさってるのかと」
「嫁にしたい子はおるんやけどね、なかなか上手くはいかへん」
「あ、そうなんですか……」
他愛無い話をしながら、お兄さんと反対側の座布団に座った。
(すっかり忘れてた)
スマホを見ると、研究室の子から返信が入ってた。待ち受けには最初の文が表示されるよう設定してある。
>都市伝説の話?
(……なにそれ)
私は慌てて画面を開いた。
>百年に一回出て来るお店があって
>そこのものを食べたら百年出れないって
>てゆーか早く来てよー寂しいんだけどー
>と、有馬が申しております
>違うから。でも来いよ
(たしかにそうだ、なんで)
ついさっき来たばかりなのに、どうして鍋が煮立っている?
この部屋までの店の内装が思い出せない。
だけど、仲居さんはお兄さんに生ゴミを出した店と同じ顔じゃないか。
そしてこの人は
「どないしたん、冷めてまうよ」
白杖をどこへやった。
「…………っ」
お兄さんを見ているはずなのに、見えない。ニット帽の下だけ、私の視野が霞んでいる。
スマホを握る指が冷たかった。
声もきっと震えている。喋ろうものなら彼に即バレるだろう。
「おーい?」
なにか言わなきゃ。唇がはくはくと無意味に動いていた。
鼻から息を吸っても吐き出すのを本能が拒む。
(ダメだ、ダメだもう)
切羽詰まった焦りでどうにか声を押し出した。
「ごめんなさい、急用が!」
身体はほぼ入り口を向いていた。嘔吐感が肺のあたりで渦巻いている。
お兄さんはやけにあっさりとしていた。
「そうなん? 残念やなあ。
ああ、じゃあせめて一口食べて行き」
「いえ大丈夫です!」
「なんやあ、都市伝説でも信じてるん?」
全身の体温が悉く落下した。冷水を浴びたようとか、血の気が引くとか本当だったんだ。
子ども騙しやで、と鍋をつつきながらお兄さんは続けた。
「君となら百年くらいあっという間やろうけど」
冗談のような口ぶり。もしも本当だったら私は絶対的に弱者のはずだった。
「百年もいなくなったら、悲しませてしまう人達がいるので」
けれど、どこにそんな自信があったのかまともに返してしまった。
お兄さんの箸が止まる。
「……せやねえ」
見えない顔が落ち込んでいるような気がした。思わず言葉が飛び出す。
「百年過ごすなら、色んな人と広い世界で生きましょう」
慰めになったのかはわからないし、湯気が動いていないことを発見してそれどころではなかったけど。
「君は、ほんまに変わらへんね」
お兄さんが笑った気がした。
□■□
「チッ」
女子高生に邪魔そうな目を向けられ、肩にぶつかったサラリーマンに舌打ちをされた。
暑い。
(……駅だ)
スマホの時間を見る。
同じ日付で一時間も経っていない。
手汗と格闘しながら、さっき連絡をとっていた子に電話をかけた。
「あっ、もしもし! うんそう、ごめん、ちょっと遅れるって……うん、お願い!」
通じた。名前を呼ばれたしまだ来ないのかとも聞かれた。
浦島太郎にはならなくて済んだらしい。
(なんだったんだろう)
人の流れに乗って進み始める。だんだん駆け足になる。追い越す。大学に向かう道を外れる。息が上がる。
(…………無い)
暖簾がある引き戸の店は、二軒とも空き地になっていた。
閑静な住宅地に、杖をつく音が聞こえた気がした。