ミヤコワスレ
花言葉:帰還 しばしの憩い また会う日まで
夜が明けなくなった世界で、そこは唯一の日溜まりだった。
対悪魔機関、ガーデニア。通称“庭”。
ガーデニアは広大な土地を天高く伸びた円柱の結界で守り、内側の大半を占める農園から世界中に作物を供給していた。
敷地内に生い茂る緑の中心には、シンボルとも言える白い塔がそびえ立っていた。そこにはクチナシの訓練所や封印した本の保管湖、農作業や結界維持に従事する者の居住スペースなどが集められていた。
結界と関門を抜け、外からその塔へ続く道。
塀のように背の高い果樹園を横目に、アンカリアは無言で歩いていた。
気まずそうな彼女の数歩先には、長らく不機嫌なカズラ。彼は日光避けのためにフードを深く被っており、さらに表情を見えにくくしていた。
アンカリアは今日ほどこの帰路を長く感じたことはなかった。こういう時に限って、気さくな農夫や樹木医に発見されないのだ。
重い空気のまま、やがて二人は塔にたどり着く。
しかし入り口らしきものは見当たらない。
彼女を置いていかんばかりに進んでいたカズラは、石でできた花と蔦が絡み合うレリーフの前で足を止めた。アンカリアもその後ろに倣う。
それこそが白い塔への入り口だった。もっとも、知らなければ扉になど見えない。
カズラがようやく言葉を発したが、入り口を解錠するためで、しかも心話術だった。
『ルビー班、クチナシはカズラ、レインはアンカリア。ただいま帰還』
心話術にのみ反応する蔦が解け、白く硬質な植物が道を開ける。
すると、中からどっと賑やかな人の声が溢れ出てきた。
ガーデニアを支える人間達が行き交うそこは、悪魔との戦いを忘れるような明るい場所だった。
砂色に近い白を基調とした空間で、羅針盤を模したロビーの床が、吹き抜けからの光を存分に浴びている。見上げれば、円周に沿った各階の柵が輪を重ねたように連なり、その遥か先が天窓になっていた。
カズラに続き、アンカリアは入り口をくぐった。
すると、泥だらけの少年二人がアンカリアへぶんぶんと大手を振って来た。
「あー! アンとカズラだ!」
「ほんとだおかえりー!」
彼らはたくましい女性に首根っこを掴まれていた。一階は出入り口しかないので、別のレリーフから連行されて来たようだった。
二人をを捕まえているのは世話役一筋三十年の女性、フェルシュだった。彼女が、手を振り返すアンカリアと会釈するカズラに気付いた。
「アン!? それにカズラじゃないか! おかえり!」
「ただいま、フェルシュ。クラージもベンも、また悪戯したの?」
アンカリアは変わりの無い“家族”に、胸のつかえが取れるようだった。彼女は膝に手をつき、弟分達に目線を合わせる。
「してないやい!」
「クラージが追っかけて来るから!」
懲りていない様子の彼らにフェルシュが呆れる。
「それで堆積地に突っ込むバカがどこに居るんだい!」
「「ここー!」」
悪戯小僧達は声を揃えた。
「全く! さっさと風呂に入るよ!
それじゃあ、またね。どうせすぐ行っちまうんだろう? 二人とも、気をつけてね」
フェルシュの眉が少しだけ下がり、そしてまた太陽のような笑顔に戻る。悪魔に親を殺された孤児から、親がレインだった子ども、幼いクチナシまで。彼女は見守り、叱り、愛し、そして戦場へ送り出して来た。
アンカリアとカズラも、フェルシュの“子ども”の一人だった。
「うん、またね」
アンカリアはフェルシュ達を見送り、カズラはもう一度頭を下げた。
またね、という言葉に確証などない。
だがガーデニアの者は、決められたわけでもなく、皆そう言って別れていた。
どの階も扉が幾つもあるが、最上階だけは一つしかなかった。それも扉というより、蔦が垂れ下がって仕切りとなっているものだった。
カズラ達がその緑をくぐると、さっきまでの賑やかさが幻のように遠退く。
アンカリアは、皆が消えてしまったような感覚に陥るため、この瞬間が苦手だった。
そこは、最上階にしては薄暗く、晴れた日の木陰のようだった。部屋と呼ぶには怪しい、横長の空間だった。
入って正面の壁はなく、光源になると共にガーデニアの果てまで見渡せた。
左右の壁と天井は蔦性の植物。床に見えるものは凪いだ水面で、澄んでいるにも関わらず底が見えない。屋上にできた湖と言っても差し支えなかった。
水面には白いタイル状の石が何枚も並び、一本の道と円形の島をつくっていた。薄いとはいえ、鉱石に分類されるようなどう考えても沈むはずの素材だった。しかし上に何が乗ってもびくともせずに浮いている。
島は、カフェのテラスのような小さなスペースだった。直接生えたような四本の細い支柱が、丸みを帯びた一枚岩を支えている。岩は島の大半に日陰をつくっていた。
その薄闇で、長い黒髪の少女が白いチェアに座っていた。手首も足首も覆う黒いマーメイドドレスに、口元を覆う白い布。瞳は閉じられていたが、彼女はアンカリア達の方へ顔を傾けていた。
アンカリア達の脳へ、子守唄のような声がそっと届く。
『おかえり。アンカリア、カズラ』
彼女こそ原初のクチナシ、かつ、ガーデニアの司令塔ジャスミンだった。
少女と言っても、最初のクチナシである彼女はガーデニアの誰よりも年上だった。開いた瞳は誰一人として見たことがなかったが、千里眼を持つとも言われていた。
華奢な白いティーテーブルには何も置かれておらず、彼女が動かなければ静物画と思っても仕方ない。そこだけ、時間がゆっくりと流れているようだった。
湖を挟んだ先の少女へ、アンカリアは緊張した面持ちで答えた。
「……ただいま戻りました。ジャスミン」
『そう怯えるな、叱るのはフェルシュの役目だ。
悪魔を封印したようだね。よくやってくれた』
「あっ、はい!」
穏やかなジャスミンに気が抜けたのか、アンカリアは思い出したように、角ばったケースから分厚い本を取り出した。そして床のような水面へ静かに落とした。
波紋で歪む水底には、同じく悪魔を封じた本が累々と積み上がっていた。
『そして、カズラ』
呼ばれていないはずのアンカリアがぎくりと肩を揺らした。
ガーデニアの頂上で世界を見つめ続けるジャスミンは、クチナシを調整できる唯一人の技術者でもある。
“処分”の判断は全て彼女が行っていた。
『……いや、アンカリア。席を外してくれるか』
「ジャスミン! あのっ!」
食い下がろうとするアンカリアを、カズラの綺麗な手が強く押し返す。
『レインが調整を見張る必要は無い。指示に従え』
フードを被ったままの彼はアンカリアを一瞥もせず、白い石の道を進んで行ってしまった。
「……はい」
彼女はそれを見送るしかできなかった。
ガーデニアには昇降機と呼ばれる、つる性の植物がある。
その葉は植物ながら大人が五人ほど乗れる大きさで、軸を中心に回りながら上昇、下降する。塔内の移動に重宝されていた。
最上階では昇降機と、ジャスミンのテラスへの入り口が真反対にあった。
アンカリアは柵に寄りかかり、そのくるくる回る植物を眺めていた。蔦のカーテンはすぐ隣だというのに、向こう側の音は一切しない。
(処分なんてことには……ならないよね)
クチナシは自我を失った場合、つまり悪魔化及び人間に危害を与えてしまった場合には、“処分”されることになっていた。
(ちゃんと自分の意志で抑えようとしていたし、わたしに襲いかかる素振りもなかった。
だから緊急性はまず、ない。今日いきなり処分なんてことはないにしても……。
大丈夫だよね……カズラ……。
いや、でもやっぱりジャスミンに……うう……どうしよう)
下降する巨大な葉を見つめる彼女の脳に、突然男の声が響いた。
『そこのシケ顔。変なツラになってんぞ』
失礼極まりないそれは、彼女にとっては馴染みのある、声変わりする前からよく知っているものだった。
驚いたアンカリアがきょろきょろと当たりを見回す。
『そっちじゃねえ、昇降機の方だ』
一フロア下で、銀髪の男が軽く手を振っていた。短めの髪は重力に歯向かうように上向きに跳ね、どことなく針山のようだった。男はアンカリアと同じく黒い外套を羽織っていた。
アンカリアは反対側まで走ると下降する葉へ飛び乗り、男へ駆け寄った。
「急に心話術を送るなんて、びっくりするじゃない! エリオット!」
「あの距離じゃ普通に呼んでも気付かねえだろ」
髪と同じ銀色の目の男、エリオット・レーガンは、アンカリアと同期のレインだった。外套の胸元には銀で出来た薔薇のブローチをつけている。彼は外からの志願者だったが、幼い頃からガーデニアへ入り、アンカリアや孤児達とは兄弟のように育った。
しかし互いにレインとして一人前になれば、再会はごく稀になる。
瞳を細めたエリオットは、久々にアンカリアの鼻を摘んだ。
「いひゃっ」
「で、そのツラはどうした。またカズラにダメ出しされたか?」
「……かふら、もひかひたら」
アンカリアは鼻を解放され、ぽつりぽつりと顛末をエリオットへ話し始める。
彼は、時折詰まる言葉にも黙って耳を傾けていた。
「それで、処分されるんじゃねえかって心配してるのか」
アンカリアの煉瓦色の頭がこくりと頷いた。
間を空けたエリオットは、声を少しだけ潜めた。
「多分それはねえよ……ナルコが処分されたばかりだ」
「……え!? ナルコって、スマイルと組んでたクチナシの!? どうして!?」
「交戦した後に悪魔化が進んじまったらしい」
「うそ……」
アンカリアは友であり姉であった少女の死に、ただただ目を見開くばかりだった。やがて彼女の黒い瞳は潤み、雫を溢れさせた。
エリオットは彼女の髪をやや乱暴に撫でる。アンカリアが誰にも悟られないよう静かに泣く癖を、よく知っていた。
「スマイルが墓をつくったから、行ける時に行っておけ。
……お、カズラも戻って来たじゃねえか」
蔦をくぐり抜けたカズラの方が先に気付いていたらしい。降りて来た彼は、はらはらと涙を零すアンカリアを不機嫌そうに見下ろした。ガーデニア内では外すことの出来ない日除けのフードで、威圧感が増していた。
『なにしてるの』
「ナルコが処分された」
『……そう』
「お前のことも心配していたんだと」
『自分を心配すべきだろ。
悪いけど、ジャスミンから任務の伝言だ。俺達ルビー班とローザ班合同で……』
淡々と話すカズラを、エリオットが片手を挙げて制止する。
「墓参りしてからな」
カズラは文字通り、閉口した。
そしてそれは、まだ続いていた。
表情こそ変えないが、カズラの全身から不機嫌が滲み出ていた。
エリオットとカズラは塔の二階でアンカリアを待っていた。
彼らの側には昇降機と、墓地へ続く扉がある。
墓地は太陽の光が燦々と射す、張り出した中庭になっていた。
一切の表情を消したカズラは弔いを早々に済ましたが、アンカリアはまだ墓前で一人祈りを捧げていた。
エリオットはロビーを行き交う人々を眺めながら、落下防止の柵に肘をついた。
「なにがそんなに気にくわねーんだよ、カズラ。
ナルコはお前と同じくらい前から居たし、アンとも仲良かった。落ち込むのも仕方ねえと思うがな」
『……わかっている』
それを最後に、彼らの応酬は途絶える。
耐えきれなくなったように、先に背を向けたのはカズラだった。
しかしエリオットの独り言のような呟きが、彼の足を止めた。
「そういやナルコが言ってたんだけどよ」
立ち去らないカズラへエリオットが続ける。
「クチナシは、人間や他のクチナシとの絆がどうしても薄くなる。歴が長ければ長いほどだ。しかも悪魔と戦いっぱなしで自分も“グラつく”。
そんな中で、アンみたいに泣いてくれる奴がいるっていうのは、励みになるんだと。泣かせてたまるか、って踏ん張れるらしい」
言いながら、エリオットはロビーを突っ切る男を見つけた。カズラと同じ、日除けの黒いフードを被っていた。
その黒フードは引き摺りそうなピンクのマフラーを片手に、昇降機の方へ走っていた。
『周りの奴の話だろ』
カズラは向き直らずバッサリと言い切った。
エリオットは苦笑する。
「ああ。だからジャスミンはお前と組ませたんだろうよ」
『……いいや』
その時、カズラの脳髄を割るような大声が——むしろ心話術なので直に脳を揺さぶった。
『カズラああああー!』
声の主は、エリオットが見つけていた男だった。ふわふわした金髪がフードから見え隠れしている。男はカズラと同じくらいの体格にも関わらず、彼の腰椎を狙って突進してきた。
隠さずに舌打ちをしたカズラは、相手の顔面を指がめり込む勢いでわし掴んだ。質の良い金の髪がカズラの指をくすぐり、癇にも触れた。
『静粛にしろ。ここをどこだと思っている、プラナス』
『痛い痛い痛いー!』
「お前らは至って静かだぞ?」
心話術で話す二人にエリオットが吹き出した。
カズラに突撃した青年は、プラナスというクチナシだった。人懐っこい、春の草木を思わせるグリーンの瞳は、クチナシには珍しく常に希望で輝いている。胸元の薔薇のブローチも、心なしか他よりきらめいて見えた。彼は生前の名残で、ピンクの長いマフラーをいつも巻いていた。
カズラの握力から解放されたプラナスは、頬を緩ませた。
『ついつい。久しぶりだから』
『誰の絆が薄くなるって? こいつクチナシだよね?』
「残念ながら」
笑って軽く答えたエリオットに、カズラはハッとした。
『……すまない、無神経だった』
「気にしてねえよ」
エリオットの本心だった。彼はプラナスを追ってガーデニアへ入り、レインに志願したが、後悔をしたことは一度もない。
罰の悪そうなカズラの隣で、沈黙を保っていた扉が開いた。
「ごめんお待たせ……プラナス?」
『久しぶり、アン!』
プラナスが満面の笑みでアンカリアを迎えた。
今にも踊り出しそうな彼に、目元を赤くしたアンカリアも少しつられていた。
「エリオットには会ったから、居るんだろうとは思ってたけど……びっくりしたわ」
『みんなのとこに行ってたんだ! ベイクスおじさんやロマのとこも』
「えっ!? すごく端の方じゃない!」
『三日前に戻ってたから、時間はあったんだ。任務も無かったし』
「そうなの……ふひゃ!?」
唐突に、プラナスがアンカリアの頬を両手で包み、容赦なく変形させた。
衝撃的な彼女の顔にエリオットは腹を抱え、カズラは目を逸らして震えた。
なぜか醜態を晒すことになったアンカリアは、真っ赤になって犯人へ詰め寄った。
「プラナス! いきなりなんなのよ、もう!」
怒りの矛先を向けられた——わざわざ自分へ向けた彼は、グリーンの目を優しく細めた。アンカリアの頭へ手を乗せたプラナスは静かに、簡単に、彼女の痩せ我慢を溶かした。
「なんなのよ、もう……」
『うん』
「…………ナルコ、が……」
『うん』
嗚咽混じりの声を、プラナスは一つ一つ拾い上げた。
世界で一番、死から遠いようで近い庭。
故人を悼み、その相棒を思って心を痛める。アンカリアのように“慣れない”人間は、実はそう多くない。
『会いたいよね。会いたかったよね』
プラナスは彼女の煉瓦色の髪をずっと撫でていた。
一方でカズラの茶色い瞳には、似たような光景が浮かび上がっていた。彼は瞼を閉じ、その記憶を無理矢理しまい込んだ。
□■□
季節の民とは、東の果てより季節を連れて旅する一族である。
夏の民がやって来ると植物が茂り、次に冬の民が近づくことで実を結ぶ。彼らが人間の食糧を、生命を支えていると言っても過言ではない。そのためにも、悪魔の襲撃から守る必要がある。
また、夏の民は暖かい気候も連れているので、引き止めようと手段を選ばない人間も多かった。
カズラの手には任務を伝える伝令があった。
『ルビー班とローザ班で季節の民の護衛だ。合流して庭まで見届ける。
馬車を使っても二日はかかるから、可能な限り早く出発したい』
今回アンカリア達が迎えに行くのは、夏の民だった。
『ルビー班は帰ったばっかりじゃないの? カズラやボクは大丈夫だけど、レインは休まないと……』
『本来ならスマイルとナルコの任務だったから、夏の民は今ノーガードだ。急を要する』
カズラの瞳が、足を引っ張るなと言わんばかりにアンカリアへ向けられる。
だが彼女もとっくに答えを決めていた。
「大丈夫。行こう」
黒い瞳には、再び意思の炎が宿っていた。