花言葉:夢で会いましょう

 

 

 筒状の結界に守られた最後の砦。世界の食糧も賄う、対悪魔機関ガーデニア。

 夏の民の到着に合わせ、豊作を祈る祭が催されていた。

 一年中農業や結界に従事する庭員にとっては数少ない楽しみでもある。子ども達がはしゃぎまわっても、その日ばかりは大目に見てもらえるような夏祭り。

 季節の民もガーデニアの人間も、広場に火を焚き、夜空を眺め歌い明かすのだった。

 

 

 ガーデニアには昼と夜がある。

 明るい広場に黒ずくめで目立つ長身の男がいた。昼の日差しを遮るためマントのフードをかぶっている。祭の支度に駆り出されたクチナシ、カズラだった。

 彼の前には互い違いになった木材が綺麗に積まれていた。

 夏祭りの目玉、大焚き火の用意である。あとは数時間後の点火を待つのみ。

 往年の世話役フェルシュがカズラの背中を豪快にはたいた。

「助かったよ、カズラ! 男手が足りなくて困っていたんだ!」

 気難しい、冷徹と有名なクチナシへそんな真似が出来るのは彼女だけだった。

 別にこの程度、と言えない代わりに、カズラは少し頭を下げた。

 非戦闘員で心話術は使えないが、フェルシュならその程度の仕草でも意思の疎通はおおよそ行える。

 つまり、穏やかではない感情の機敏も悟られてしまうと、カズラは失念していた。

「……なにかあったのかい?」

 フェルシュが尋ねると、カズラはきょとんとし、次いでブラウンの瞳を泳がせた。

 たしかに、木を積み上げるという単純な作業だったこともあり、考え事をしていた。だがそれは身ぶり手振りで表すには複雑すぎる内心で。そもそも彼の性格上、打ち明けると決心することが最難関である。

「アンかな。あの子もちょっと考えていたから」

 しかしベテランの“母”に、そんなものは無関係だった。

 本格的に目を丸くしたカズラは、正解と言っているようなものだった。

 フェルシュは慈愛の笑みを向ける。

「あたしにゃ細かいことはわからないけど、きちんと話をしておきなよ。話さなけりゃ何もわからないさ。ただでさえあんたは一人で抱え込むんだから。

 傷つけたくないんだろうけど、アンのことも信じておやり。あんたが思うより、あの子はずっとずっと強い」

 フェルシュは昔の二人を思い出していた。

 彼女の記憶の中では、幼いアンカリアが、亡骸にしがみついて泣いていた。大泣き、というには静かに涙をこぼしていた。

 そんな少女の後ろには、マントに返り血をつけたカズラが黙って立っていた。傍目には無表情に見える彼は、震えるほど固く拳を握りしめていた。

 全て覚えているフェルシュは、その上でカズラの背を押した。

「言わなきゃ受け止めることもできないだろ」

 カズラの中できつく絡まっていた思考が緩まるようだった。

 彼は、飛び出してくる数々の思いに、ゆっくり目線を下げた。そのブラウンの瞳は、珍しく不安そうに揺れている。喧嘩した友達と仲直りをしに行く子どものような顔だった。

 しかしもう一度フェルシュを見て頭を下げた時には、いつも通り、真っ直ぐに前を見据えていた。

 

 

 日が沈みかけ、ガーデニアでしか見られない夕暮れが訪れる。祭を待ち切れない人々の笑い声が、敷地内の墓地まで薄く響いていた。

 フェルシュとのやりとりを思い出しながら、カズラはある墓石の前に佇んでいた。フードをかぶったままでいるせいで、シルエットは死神にも見える。

(信じる……信じなきゃ。このままにしたら、俺がやってることは独りよがりだ)

 フェルシュと話をした時には、腹を括ったつもりだった。だが墓石に刻まれた名前を何度見ても、後悔が押し寄せ止まらなかった。

(ごめん、なんて言葉で済むのか)

 考えに考えていたせいで、カズラの中に混乱が生じ始める。脳が煮崩れたように、使い物になっていない感覚はあった。

 逃げようとしたのか頭を冷やそうとしたのか、本人にも判断はできなかったが、彼はその場を離れようとした。

 だが、数歩進んだところで声をかけられる。

「……カズラ?」

 彼は弾かれたように振り返った。止まった心臓が早鐘を打っている気がした。

 今、最も会いたくない、会う準備ができていないアンカリアが立っていた。彼女は自信なさそうな声だったが、黒ずくめはカズラだと確信していた顔である。小ぶりな花束を抱え、煉瓦色の髪に黒いベレー帽を乗せていた。カズラが知る限り、彼女が帽子を忘れたことはない。

 アンカリアがヘラヘラと笑う。

「あ、ごめん。驚かせちゃったかな」

 カズラはそこで初めて、動揺を隠せていなかったことに気付いた。図星を言い当てられ居心地が悪い。

 アンカリアは何事もなかったように、自分の目的であった墓へ花を捧げた。

 彼女が献花した墓は、カズラが長らく立ち尽くしていたものと、同じだった。

 しゃがんで花を整えながら、アンカリアがぽつりと声を漏らした。

「……ねえ」

 カズラは一度だけ強く目を瞑る。そして開いたブラウンの瞳を彼女へ向けた。

 墓石に彫られた祈りの言葉が、夕陽を受けきらきらと反射していた。応援しているようだった。

『なに』

 カズラは、余裕もなく、突き放した言い方をする自分に嫌気が差した。己を殴りつけたくなるそれは、ここ数年ずっと直らない癖でもあった。

 彼の葛藤など露ほども知らないアンカリアは、墓石の前で膝をついたまま彼を見上げた。

 次に彼女が口にした名前は、そこに刻まれているものだった。

「パパとママは……ううん。

 モクレンとサルビアは、最期になんて言ってた?」

 今日一番と言わず、カズラはかつてないほどの驚愕に見舞われた。

 両親を殺した、と言った男へ、アンカリアは笑っていた。困ったように少しだけ眉を下げているが、カズラを責める感情はどこにも見えない。

 彼には、どんな経緯でアンカリアがそう言ったのか、笑ったのかが全くわからなかった。

 何か裏があるのか、はたまた自分が彼女の感情を都合よく見落としているのでは、という疑念。

 この胸の内を悟ってくれたのかというわずかな希望。

 許されようとすることを許さない自分への怒り。

 それらが一挙に押し寄せ、彼を先ほどとは比べものにならない混乱へ突き落とした。

「えっと、カズラ?」

 いつの間にかアンカリアがカズラの側まで来ていた。見たこともないくらいに呆然とする彼を、心配そうに覗き込んでいる。その黒い瞳にはやはり、軽蔑も憎悪も浮かんでいなかった。

 混乱したまま、口を滑らすようにカズラは言葉を紡いでいた。

『……サルビアの最期には立ち会っていない。

 俺が会ったのは——』

 その時、二人の脳内へ凛々しい声が割り込んだ。

『ルビー班、大至急私の部屋へ集まってくれ』

 心話術を送ってきたのはガーデニアの総司令塔、ジャスミンだった。

 

 

 盛り上がる祭の賑わいから逃れた最上階。

 鏡のような水面がほとんど沈んだ夕焼けを反射し、中央の白いアプローチも薄くオレンジに染まる。その先に繋がる丸い日陰に、静止画と見紛う、原初のクチナシがいた。

 カズラとアンカリアが白い石の孤島へたどり着くと、ジャスミンがことりと首を傾げた。

『よく来てくれた』

 すらりと背中を流れ落ちる漆黒の髪、口元を覆う布、閉じた瞳。いつも通りのはずだが、ジャスミンの声はどこか焦りを含んでいた。 

『落ち着いて聞いてくれ。

 イリダ班が悪魔と手を組んだ』

「……え?」

 ただ事ではない、と身構えていたアンカリアでが思わず声をこぼす。

 普段はそんな彼女の動揺を咎めるカズラでさえ、困惑の色を浮かべていた。

 ジャスミンが続けた。

『安否確認の任務についていたスマイラックス……リリー班が接触した際、発覚した。こちらの情報が筒抜けになっていた可能性も大いにある』

「スマイル……」

 レインの師匠にあたる名を、アンカリアは小さく呟いた。彼女ならエリオットに裏切られるようなもの。想像もしたくなかった。

 ジャスミンの話はまだ終わらなかった。

『一方で、悪魔側の情報も得た。

 世界に散らばる杭は、東西南北に大元がありそれぞれ悪魔が管理しているらしい。それが杭を増やす物なのか保持しているだけなのかは不明。

 当然だが罠ということもあり得る』

 カズラがアンカリアの様子をうかがったのは一瞬だった。すぐに目線を戻す。フェルシュの言葉が、ほらね、と囁いているようだった。

 アンカリアは唇を引き結びながら、しっかりとジャスミンを見据えていた。

『そこでルビー班へ任務を言い渡す。

 東の果てへ向かい、情報の真偽を確認。もし大元の杭が存在した場合は破壊すること』

 二人同時に頷いた。

 ジャスミンの後ろで、太陽が地平線へ消える。

『果て付近は地形がはっきりしていない部分も多い。特に東は。案内人を頼んでおいたから、下で合流してくれ。

 イリダが……サティバほどの頭脳が敵にまわってしまった以上、事態は急を要する。

 頼んだぞ』

 馴染み深い夜が、すぐそこまで来ていた。

 

 

 アンカリア達が昇降機から降りた頃には、人々は広場へ出払い、ロビーは静まり返っていた。蕾を象った照明がやんわりと明かりを灯している。

 床一杯に描かれたベージュとブラウンの羅針盤。

 その北側で、黒いフードをかぶった“男”が待っていた。

『やっと来た』

「チャチャ!? 身体は……!?」

 アンカリアがとたとたと駆け寄る。

 チャチャは長年の少女趣味なワンピースと打って変わり、黒ずくめの男装だった。艶やかな黒髪の上にはヘッドドレスも無い。代わりに黒いチョーカーをしていた。指先まで手袋で覆い、首から上の透き通る白さが一層目立っていた。

『大丈夫。

 ジャスミンから話は聞いたんだよね。僕はもう出発するよ』

「出発って、チャチャも任務なの?」

『うん。

 僕は北へ。南はリリー、西はローザが向かっているはずだ』

 それまで黙っていたカズラが心話術で口を挟む。

『待て。レインはどうしたんだ』

 チャチャは自分の首に巻かれたチョーカーを指差した。よく見ると紛れるように黒い紋様がびっしりと描かれている。

『これがその代わり。試作品だけどね。

 僕にツバキ以外を宛てがえるわけないでしょ』

 愚問だね、と鼻を鳴らすチャチャは、以前と変わらない笑みだった。

 そんな顔をされては、カズラは口を噤(つぐ)む他ない。

 チャチャは黙る彼を見ると、おもむろにその後ろへ回った。そして、カズラの膝裏へ蹴りを入れた。

 カズラの心話術が荒れる。

『っにすんだ!』

 怒鳴られたにも関わらず、チャチャはカズラの背中に額をぶつけて止まった。

 苛立ちのままに振りほどこうとしたカズラは、そっと腕に添えられていたチャチャの手に気づいた。肩越しに、ヘッドドレスの代わりにフードをかぶった頭を見つめる。

 フードの下では傷み知らずの黒い髪は頬を滑り、形の良い唇は緩くつり上がっていた。

『気遣いなんてしないの。いつもデリカシーないくせに。

 ……おかげで、悪魔に堕ちなくて済んだ』

 トレスリーの件以来、彼らがまともに会うのは初めてだった。

 チャチャは本当なら、住民を皆殺しにしてでもツバキの仇をとりたかっただろう。双子を少しでも知っていれば、誰もが容易に想像できた。

 だからこそ、カズラは目を丸くした。そして明後日の方を眺め、さも面倒臭そうに肩を竦めた。

『お前の処分なんてご免だから』

『君こそ、いつまでもアンに意地悪してたら愛想尽かされるよ』

 手を離したチャチャも顔を上げ、嫌味を付け足す。そして、くるり、とスカートなら裾が美しく広がりそうなステップを踏んだ。おどける彼は、止めてくれる奴は一人減っちゃうんだから、とは言わなかった。

 少しズレた疑問を抱いているのは、アンカリアだけだった。

「そんなにひどくされたことあるっけ?」

『さすがアン』

 ステップを止めたチャチャが軽く吹き出す。

「え? どういうこと? カズラもなんで溜め息つくの? しかも長い」

 カズラの美貌が苦々しく歪んでいた。

 チャチャは隠さずそれを笑った。

(お別れは軽くしないとね。アンが泣いてしまうから。カズラも何も言ってこないし、どうせ気づいてるんだろう。

 これが最後だって)

 チャチャの前では見慣れたやりとりが行われていた。

 つっけんどんなカズラに、アンカリアが慌てふためく。

 チャチャは満足した顔で、もう二度と会わない仲間達を目に、心に焼き付けた。

『それがアンのいいとこだよ。ふふ。

 さあ、もう行かなきゃ』

 チャチャはじゃあね、とすぐ戻るかのように踵を返した。

 だが、間違いなく何も知らないアンカリアが、今回に限ってチャチャを引き止めた。

「チャチャ、案内無しで北の果てに?」

『……知ってる場所だから』

「そうだったの。気をつけてね!」

 アンカリアはいつも通り明るかった。

 彼女へ振り返ったチャチャは眩しそうに——どこまでもツバキと同じ笑みを浮かべていた。

『ありがとう』

 

 

 □■□

 

 

 止むことを知らない叩き付けるような吹雪。山間の廃村は面影もなく、闇を無視する白さに塗り潰されていた。

 腰まで埋まりそうな一面の雪景色を、立体化した影のように黒い男が進んでいた。全身黒ずくめだが、暴風でフードは頭から滑り落ちていた。

 隔離されていたとはいえ、生前を過ごした地。チャチャの足取りに迷いは無かった。

(雪なんて故郷(ここ)でしか見たことなかったな。果てだから、なんだっけ……雲とかいうやつが入り込んでいたのか)

 夜空の端であろう方角をちらりと見るが、粉雪が勢い良く目に入るだけだった。

 しばらくして彼は歩みを止める。

 底の見えない大地の裂け目から強風が吹き上げ、豪雪を煽っていた。彼が蘇った直後に飛び降りた、処刑の崖。その対岸に、奇跡的な削れ方をした岩——裁きの十字が変わらず佇んでいた。

(こんな近くにあったなんてね)

 チャチャはチョーカーを片手で外した。それはあっという間に風に攫われたが、気にした様子は無い。

 瞳に真紅の光が宿る。

「……ん、仮解除完了」

 彼は調子を確かめるように咳払いをすると、反対の手に持っていた本を開いた。重く分厚い蔵書は古く、風で今にもバラバラになってしまいそうだった。

「北の先端に生まれ堕ち雷撃の翼を広げた——」

 テノールが淡々と読み上げると、紙から紐状の黒色が立ちのぼる。その文字列は吹雪をものともせず形をつくっていった。それはやがて人の姿になった。

 懐かしさなど微塵も感じないまま、チャチャが召還したのは、この村の山神。

 黒から生まれたと思えない程に白い神が、ゆっくりと開眼する。そこから青い光がじわりと溢れた。そして、何人もの生贄を食い散らかした口を開いた。

「供物と引き換えに願いを…………うわああああ!? おま、おまえ!」

 山神こと白髪の貧相な悪魔、ポールワイスは腕で頭を抱え、その隙間からチャチャを覗き見た。

 頭隠してなんとやら。滑稽な悪魔に、チャチャは口角をつり上げる。バカにしたわけではない。その方がまだ良かった。腸(はらわた)が煮えくり返りすぎて、瞳の奥がこの豪雪よりも冷え切っている笑みだった。

「僕の愛しい妹をやっただろう。願いはただ一つだ。

 ポールワイス、お前の消滅だ」

 チャチャが蔵書を投げ捨てると、悪魔は脱兎の如く逃げ去ろうとした。しかしその枝のような足へ、質量を持った影が絡み付く。そしてちぎれんばかりの勢いでポールワイスを叩き落とした。

 雪原が到底吸収し切れない衝撃で、悪魔の膝は真横に曲がり、肋骨らしきものがアバラから飛び出た。

 ポールワイスが情けない悲鳴をあげた。

「なんなんだよお……オマエらだって食べるだろ!

 オレたちばっかりなんでぇ……!」

 その声がフェードアウトする。再び振り回されたポールワイスの足はねじ切れ、本体は雪山に突っ込んだ。

 露出した地面は岩盤と言っても差し支えない。その頑健な大地を抉るようにクレーターができていた。

 チャチャの赤い瞳が煮えたぎっていた。

「そうだよ。他から命を奪って生きている。

 でも牛や豚が仇討ちに来たからって、人間が黙って殺されるとでも?」

 落ちていたポールワイスの膝下から闇が生え、その健在を示していた。

 チャチャは悪魔の落下地点へ一歩一歩近づいた。

「生きようと戦うだろうね。屠殺直前の家畜も同じだ。

 そこに善悪は無い。力の優劣だけ」

 殺意に満ちた真紅の眼光が、雪原に空いたブラックホールへ刺さる。

 チャチャの宣言が、雪山に木霊した。

「好きなだけ抵抗しろ。僕はお前を消す」

 直後、岩肌の穴から閃光が弾けた。同時に上空へ白色が飛び出す。

 ポールワイスは別の悪魔のように喚き散らした。

「チカラアあアア! マケナイぃいイイいい!」

 電撃が四方八方に迸る。

 チャチャは身を捌いた。悪くてもそれが掠る程度で避けたはずだった。だが傷口は予想よりずっと幅広く、真っ黒に焦げている。

 電撃は狙いが定まらなくとも、余波でこれだけのダメージを与えていた。稲妻の一本一本が恐ろしい威力だった。

 ポールワイスの脆弱な精神は、狩りでも逃走でもない、“戦闘”の体勢に入っていた。ちぎれた足が再生のために本体へ黒い枝を伸ばしている。それを迎えに行きもせず、悪魔は歪な光の翼を生やした。狂った青い瞳孔が開き切っていた。

 その周りに、先程とは比べ物にならない極太の稲妻が六本浮いた。

「アアアアアアア!」

 がむしゃらに咆哮しながらも、雷は正確にチャチャへ振り下ろされた。

 大地と電気が激突した爆音、雪が高速で溶け舞い上がった水蒸気。それらが両者の視界を断絶した。

 チャチャは腕で目を庇う。

「ぎゃあぎゃあ耳障りだ、本当に……!?」

 悪魔と同様に、チャチャにとっても積雪は大した障害にはならない。

 しかし彼の右足が動くことを拒否した。

 溶けたが水蒸気にならなかった雪が再び凍り、地面にチャチャを磔(はりつけ)る足枷となっていた。

(冷感の警鐘感覚に混ざって……!)

 舌打ちした彼をポールワイスが待つことなどない。

「ンがアアアアアア!」

 落とされた雷は十二本に増え、しかし威力は全く衰えていなかった。

 チャチャは咄嗟にニグレードで分厚い壁を立てる。しかし質量を持っているはずの影は、雷撃に触れた側から蒸発していた。

 さらに十二本の雷が追加され、勿体ぶるように時間差で落とされる。

 チャチャはニグレードの盾で遮り続け直撃を免れていた。それにも関わらず、彼の表皮は焼かれていた。

「ぐっ……!」

 彼はニグレードの両脇から枝を伸ばし、ポールワイスを突き刺そうとする。だが分岐した程度の影では、激しい雷撃の前に形すら保てなかった。

 チャチャは、瞳の紅い光を強めた。

(ツバキ……!)

 雪山を照らすのは悪魔の放つ不規則な電撃だけである。宙に浮くポールワイス自身や枝を伸ばすニグレードの下で、不自然に蠢く黒があった。

 岩影に紛れるようなそれは荒ぶる悪魔の死角に集まり、男一人くらいの大きさになる。

 ポールワイスの落ち窪んだ瞳が、そちらにぎょろりと向けられた。

(影ニ隠レテ後ロ狙ウ! バレバレ!)

 雪や“多少”厚みのある影では悪魔の視力を誤魔化すことはできない。

 ポールワイスは振り返り、そちらへ病的に細い両手を突き出した。

 十二本の稲妻が一つに纏められ、聞くだけで痺れそうな音が激しくなる。吹雪は悪魔に辿り着く前に気化させられ、空間にぽっかりと穴が開いたようだった。

 ポールワイスは槍を投げるように腕を振りかぶった。

「バレバレエエエエエエ!」

 そして、ここ百年で最大の雷が落とされた。閉ざされたこの村に伝わる“天誅”の十倍はある。

 ポールワイスは首を傾げた。

「イィ……?」

 全力を投下した悪魔の背中はがら空きだった。電気の翼の根元から灼熱感が走る。

 ポールワイスが背中の溶解を認識した時、骨張った身体は雪へ埋まっていた。

 雷が落とされた場所は無人。

 チャチャが、足元が氷ついたまま、銀色の銃を向けていた。

「僕も同じ“目”を持っているからね。あんな簡単に引っ掛かるとは思わなかったけれど」 

 ポールワイスは、チャチャに背中を“向けさせられた”のだった。

 直後、状況を飲み込めていないポールワイスの口へ、影が捩じ込まれる。

「んぐおあ!?」

 ポールワイスの顎が外れてもお構い無しに、ニグレードは注がれ続けた。

 悪魔が持ち前の怪力で侵入を防ごうとするも、影は怒濤の勢いで流れ込む。

 チャチャは一本の鋭い影で氷の足枷を砕いた。

「無駄だよ。さっき発電器官も撃った。——再生する暇なんてやらないよ」

 そして彼は積雪を踏みしめ、もがき苦しむポールワイスへ近づく。彼の手には銀色の銃があった。

「これ、憶えている? ツバキの銃なんだけど」

 彼は悪魔の貧弱な四肢を一発ずつ撃ち、すかさず影で切り落とした。

「初めは、ツバキにされたことをそのまましてやろうと思ったんだ」

 抵抗の術を無くしたポールワイスの腹が、絶叫ごと捩じ込まれる質量で膨張し続ける。

 チャチャは生ゴミを見るようにそれを眺めていた。光る真紅の瞳を蕩けさせるのは、常に一人だけだった。

「でもお前のような悪魔がツバキと同じ死に方なんて、許せない。

 だから、返してもらうことにしたんだ」

 白目を剥くポールワイスの体内で、ニグレードがついに臓器を食い破り、彼女を探しまわる。腹部だけでなく、顔や首まで内側から膨らみ始めた。表皮が今にも裂けそうに突っ張る。

 チャチャは恋人にするように、銀の銃へ唇を寄せた。

「血の一滴まで、ツバキは僕のものだ」

 恍惚に反応したように、影の濁流は勢いを増した。そしてついに敗者、ポールワイスを破裂させた。

 細かく千切れた黒い欠片が辺りに飛び散る。それらはすぐ、再生のために輪郭を崩し、細かい触手のようなもので他のパーツを探し始めた。

 チャチャは冷静に、汚物を見る顔で近場のそれを踏みにじった。

「さて……ん」

 彼は顎を伝う液体を親指で拭った。

 指をさらりと濡らしたのは、唾液だった。実に久しぶりに、腹の底から食人欲求がせり上がっていた。

 チャチャの脳裏にオレンジ色のくせっ毛がよぎる。

(負けるなよ、いじっぱり)

 彼の足元からニグレードが一本立ち上がった。

 チャチャはそれを太く、同時に先端を尖らせ大きな槍を象らせていった。

 狙いは崖の対岸に佇む——裁きの十字架と崇められた岩。

 チャチャは煩わしい“食欲”を無視し、手袋をした右手を振りかぶった。

 どす黒い影は、底の見えない谷をあっさりと飛び越え、十字架を貫く。

 チャチャが遠隔でさらにニグレードを押し込めば、十字の中心からひびが走り、ようやく砕けてただの岩となった。

 彼の悪魔的な視力でもかすかに捉えられる程度だったが、吹雪の向こうで何かが天へ飛び上がった。

「……終わったよ、ツバキ」

 その時、チャチャの靴の裏でじゃり、と雪にしては硬い音がした。彼が右足を退かすと、光を収めることのなくなった瞳が丸くなる。

 ポールワイスだった破片が灰色の砂になっていた。

 チャチャは力の抜けた笑みをこぼした。

「ジャスミン、どうせ視てるんだろう?

 君の予想通りだ」

 もう指先の感覚も無く、手袋の中身は砂に置き換わり始めていた。

 彼が仰ぎ見た空は、暗闇が捲れ上がるようにどんどん明るくなっていく。雪を吹く暗雲も、逃げるように散っていった。

 杭の向こうは夜が明けていた。

「……ふふ」

 彼が彼である残り僅かな時間。

 唾液は口の端から漏れて止まらず、空腹が胃を引き絞る。

 しかし、チャチャは清々しい笑みを浮かべていた。そよ風でも浴びるように目を細めた、晴れ渡った顔だった。

「いい天気」

 最期の言葉は何にしようか。

 考えるまでもなく答えは決まっていた。

「愛しているよ、ツバキ」

 チャチャは朝日を抱きとめるように両手を広げた。

 

 

 数百年振りに吹雪の止んだ村。冷たく澄んだ大気を、新鮮な日差しが照らす。

 雪原に落ちた黒い服が、灰色の砂にまみれていた。

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