花言葉:戦い 忠実 真心を持って

 

 

 そそり立つ草原の牢獄に、アンカリアはまだ閉じ込められていた。体重を一手に支える片膝が悲鳴をあげている。しかし彼女は動けなかった。

 空気はぬるいだけで音もせず、群生する植物がより圧迫感を与えた。

 

 ——サルビアとモクレンを殺したのは俺なんだ。

 

 衝撃的なカズラの言葉がぐるぐると彼女の頭を駆け回っていた。

 どうして今まで黙っていたのか、なぜ殺したのか。

 無数に湧き出る疑問が最悪を伴って脳裏をよぎり、あまつさえ思考を埋め尽くそうとする。

 アンカリアは頭を振って猜疑心を追い払った。

 レインになった日の風、草木の匂い、いつもより明るく見えたガーデニア。それらの景色を必死で呼び起こし、最初の誓いを何度も言い聞かせた。

「……“憎しみの連鎖に飲まれるな。悲しみの姿を見誤るな。

 愛の盾で連鎖を断ち切れ”」

 悲しみは、その人を深く愛したから生まれるのだ。憎い誰かに目を奪われてはならない。愛した人を理由に憎んでもならない。

 それは彼女の父と同じ——譲り受けた誓いだった。

 アンカリアは痺れる脚に喝を入れ、透明な鎖を振り切るように立ち上がった。

(こんな暗がりにいて、悪魔の奇襲がないとは言い切れないわ。それに、白芷ちゃんとカズラを追わないと)

 その瞬間、煉瓦色の髪に何かが触れる。

 奮起し、銀の銃をホルスターから抜いたアンカリアは一発放って果敢に声を上げた。

「Paries!」

 提灯よりも強い光が彼女を守るために瞬く。

 しかしその先に浮かんでいたのは、藤色の折り鶴だった。伝令で見慣れているものだった。

「え?」

 掌に降り立ったそれを開くと、流れるような文字が並んでいた。崩したふりをして、神経質に止め跳ねを遵守するそれらは、サイコからだった。

「白芷ちゃん……」

 全ての片がついた旨が記されていた。心話術を使わず、わざわざ鶴を折った理由も書かれている。

 アンカリアは指示の通り、サイコへ鶴を送り返してその後を追った。

 

 

 土手に停滞する行列。祭り囃子は止んでいた。

 密林紛いの草原から男二人が戻る。一人はどんよりと腕に抱えるものへ目を落とし、もう一人は引き摺りそうなほど長い剣を携えていた。

 キャラバンから進み出た御島の頭首へ、口がきけないはずの男が淡々と、姿を“消した”少女——悪魔の顛末を知らせた。

 民の一人が赤い髪の青年へ駆け寄る。彼と同じか、少し年上くらいの女だった。

 彼女は白芷へ衣装を貸していた。着る人間を無くして帰って来たそれが、喪失の実感を否応なしに与える。背負う季節は違えど、冬の少女は同族だった。

 鼻を啜る音は止まなかった。そのうち誰かがぽつりと呟いた。

「白芷は、本当に悪魔だったの……?」

 大気が戦慄し、静まり返る。そして一つ、二つと泡のような囁きを反響した。

「悪魔は人を食うんだろう?」

「彼女は全然、普通だったじゃないか」

「キャラバンからはぐれてしまっただけなのに……」

「別に害もないし一緒にいても問題なかった」

 金色の瞳が何対もカズラへ向けられる。様々な感情が混ざり、どれも濁っていた。

「殺す必要、なかったんじゃないか」

 茴香は呆然と俯いたままだった。

 呵責の眼差しを一身に受けても、カズラは口を開かず、顔色も変えない。

 白芷という存在を、悪魔になった瞬間から駆除対象として迷わず切り捨てた。その心に慈悲はない。そう誤解されても仕方ないほど、彼は表情を固めていた。

 その時、地鳴りのように低い声が全員の身体を揺らした。

「ほざきなさんな」

 サイコは怒鳴るわけでも、顔を真っ赤にするわけでもなく、ただただ民を見渡した。しかし、柔和に細められていた常磐色は、本来の鋭さ以上につり上がっていた。

「季節の民から悪魔が出てしまった。それも生前の人格を持ち越した、クチナシがいなければ成す術のないものや。

 知らん間に悪魔を抱え込んで、ぼくらが全滅でもしてみい。人間は終わってまう。

 どれだけ由々しいことか、よくよく考えてから文句言い」

 誰もが押し黙り、再び音が止む。茴香はまだ白芷の体温が残る衣装を眺めていた。

 カズラは、目を背けるにしては真っ直ぐに、黒い草原を睨んだ。自分が責められた時よりずっと険しい顔をしている。

 このお人よし、とは言わずにサイコは力の抜けた声を出した。

「アンには鶴を飛ばしてあるんよ。もうすぐ……ほら」

 小さな紫色に続いて、ベレー帽の黒を乗せた煉瓦色が原っぱから出てきた。剣を握りしめていたカズラの手がわずかに緩む。それもサイコだけが見ていた。

 そして土手を上がったアンカリアは立ち尽くしてしまった。

 泥のついた布を抱える茴香と、彼の分も涙を流す民。沈黙が重く立ちはだかり、かける言葉が見つからなかった。

 アンカリアはカズラへつい、助けを求めるような目を向けてしまった。視線が合ってから彼女はハッとするが、カズラはいつもの仏頂面だった。

 少しの間をおいて、カズラはこの場の誰よりも悪魔に近い瞳をそっと伏せた。普段の突き放す態度は影も無い。極刑の執行を待つ罪人のようだった。

 何もかもを、あらぬ呵責まで黙って受け入れそうな彼に、アンカリアはとてつもなく焦った。一言だけでも声をかけなければ、カズラを繋ぎ止められない気がした。自分の両親を手にかけたとは、まだ信じられていない。問いただす勇気も持てなかった。

 その時、アンシスが彼女の目に入った。

「Gambir iubeo Ramulus 鼓動よ眠れ」

 文字列となった剣がカズラの喉元へ染み込み、ブラウンの瞳が光をしまいこんで人間のものへ戻る。

 カズラは突然釈放を言い渡されたような、きょとんとした顔をしていた。

 一方のアンカリアは、いつも通りに、と深く息を吸った。目を合わせるだけなのに、声は酷く震えてしまった。言葉にならない感情が、喉の奥から出たがっているように苦しい。

 ただ、カズラに悪魔になってほしくない。彼女の中でそれだけは確かだった。

「遅くなってごめんなさい」

 彼女はそこで限界を迎え、視線を逸らしてしまった。逸らした先で酷く沈んだ茴香が目に入り、結局下を向く。

 交代のように茴香がアンカリアの方へ顔を上げた。彼女は幸い、彼の酷い表情を見ずに済んだ。

 サイコは抜け殻のような茴香へ歩み寄り、肩をそっと叩く。倒れこそしないが、弟分は力無く揺れた。

「茴香は少し休みや。

 皆は持ち場へ。これ以上ここへ留まることは出来へん」

 サイコの指示で民が動き始めた。

「……そうや。留まることは出来へん」

 彼は口を引き結び、自分に言い聞かせる。だが常盤色の目は在りし日の本郷を思い返していた。

 白芷も茴香もそれぞれ、互いの話をしょっちゅうサイコにしていた。些細な仕草にときめき、照れ隠しで挙動不審になったと落ち込み、褒められて嬉しかったとはにかんだ。これは絶対に秘密だから、とサイコは二回ずつ念押しされた。

 サイコは小さくかぶりを振る。

 思い出に浸っている暇はない。御島の頭首は常に全体を見渡し、最善を選ばなければならなかった。

「進まな、あかんよ」

 彼はもう一度声に出し、歩き始めた。

 

 

 □■□

 

 

 教会の椅子はひっくり返って散乱し、ステンドグラスは割れこそしなかったものの、ヒビだらけになっていた。

 真っ黒な髪に真っ黒なローブに身を包んだ少女が、そんな残状に興味も無さそうに首を傾げた。胸元のブローチは、くすみ知らずの椿の花。ワンピースのロマンテッィクなフリルも隙間から覗いている。

「どうして教会でばっかりイケナイことをするのかしら?」

 彼女の唇をそっと撫でたのは、同じ顔と服の“兄”だった。

「さあ。背徳感がクセになるとか?」

「あたし達みたいに?」

 クスクス、とツバキとチャチャは鼻先を触れ合わせ、睦言を囁いた。

 彼らの足元には、屈強な男共がだらしなく転がっている。いわゆる護衛だが、縦横無尽に押し寄せる黒の影(ニグレード)の足止めにもならなかった。

「悪いと思ったことないでしょ」

「もちろん」

 二人は手を絡ませ合い、壁に開いた穴——隠し通路へ侵入した。

 長ったらしい一本道を進むと、よほど邪魔されたくないのか、重厚な鉄の扉が鎮座していた。しかし質量を持つ影によって、紙切れのように容易く破られた。

 二人揃って踵を高らかに鳴らすと、真っ暗な小部屋に蝋燭だけが頼りなく揺れていた。逃げ場は無いはずだが、人間も悪魔もいない。

 チャチャは鋭い眼差しであたりを見回した。

「……静か過ぎる」

「ええ」

 ツバキがたった一歩踏み出したその時、彼女の足元から紫の光が走った。

 光は彼女を中心にして床に円を描き、さらに内側へ複雑な文字をびっしりと連ねる。そしてツバキの身体にも、光がまるで下書きをなぞるように這い上がった。

 彼らは知る由も無いが、そのくどい紋様は過去に塗りたくられたものだった。

 敵を警戒していたチャチャは、一瞬出遅れた。

「ツバキ!」

 

 

 伸ばされた自分より少しだけ大きい手。鏡のように瓜二つな、しかし輝く真紅の瞳。

 チャチャの姿を最後に、ツバキは凍えそうな冷気に晒されていた。

(……ワープなんて、どこから入れ知恵されたのかしら)

 彼女はさっきまでいた小部屋ではない、信じ難いほど寒く、より灯りのない別の場所にいた。ツバキは銀の飴(シルバーキャンディ)を地面で炸裂させる。

「Paries」

 声と共に日光は蔦のような陣を描き、彼女に視野と結界を与えた。

 あまりの温度に屋外かと思えば、一応ヒビだらけの壁に囲まれていた。床はソースを零して引き摺ったような汚れで覆われている。大きな窓の側にはなぜか、子ども用の二段ベッドや机が置かれていた。

 ツバキが状況を把握したと同時に、日光の結界が何かを弾いた。

「うわあああん! なにするんだよお!」

 彼女の背後から何者かが近づいていたらしい。ホルスターへ手をかけ振り返ったツバキの前で、それは大げさに縮こまっていた。

 酷く叱られたように白髪頭を抱えているが、背丈や手足の長さはどこからどう見ても大の男である。骨と皮だけの貧相な体躯は、ぶかぶかの寝間着を吊るしているようだった。そして病人のように落窪んだ目は、青く輝いていた。

「…………ポールワイス」

 忘れもしない不気味な容貌は、故郷に召喚され、チャチャを食い殺した悪魔だった。

 自身は滅多に表へ出ず、人に奉らせ、電気や恩恵を与える代わりに供物として食糧——人間の腸(はらわた)を得るという。信者に生贄を送らせたり、用意が整ってから召還させたりする臆病な悪魔。

(まさか、あの時のがまだ有効だったなんて)

 そこまで調べをつけていたにも関わらず、自分が餌の立場になってしまった。ツバキはプライド以外の理由でも眉根を寄せた。

 悪魔は音がするほど頭を掻きむしっていた。

「なんだよアイツら……こんなおっかないの寄越して……次に呼んだら殺してやる……」

 ポールワイスは臆病な“だけ”である。

 餌や信者など、自分より確実に弱い者へはその実力を披露する。数々のクチナシを退けレインを葬った、文字通り悪魔的な暴力。資料がガーデニアに残るくらいに遭遇して、未だなお封印されていない事実も、力の強大さを物語っている。

 ツバキは銀の銃を構えた。

「……愛しているわ、チャチャ」

 出口らしいものは窓だけで、わずかに見えた町の灯りは遥か下だった。

 

 

 □■□

 

 

 夏のキャラバンは、再び行進していた。楽器は変わらず軽快な音色を響かせている。

 しかし、いつも好き勝手に入れられる合の手は無く、どこか欠けたように聞こえていた。奏者も決して活き活きしているわけではない。だが民は、何があっても季節を滞らせてはいけなかった。

 アンカリアの前で、茴香の大きな背中がふらふらと歩いていた。

 彼のまわりには仲間が数人いるが、特に会話はない。

 アンカリアの脳へいきなり声が届いた。

『しばらく放っておいてええよ』

 小さくびくついた彼女があたりを見回すと、斜め後ろで、たった今気付いたかのようにサイコが手を振った。

『……びっくりするじゃないですか』

 アンカリアはじとっとした目を返して前を向いた。戻ってから一度も、茴香の顔を見ていないことが気がかりだった。

『今にも謝りに行きそうやったからなあ。

 そないなことする必要あらへんよ』

『だけど!』

 アンカリアが思わず振り返ると、今度は彼女のすぐ真横で紫色がなびいていた。

 いつの間にか隣に来ていたサイコの鋭利な瞳が、アンカリアへ問いただす視線を突きつける。

『なら、なにを言うつもりで?』

『それは……』

『あれ以上の選択は誰にも出来へんかった。

 なんなら君だって被害者や。間違っても加害者やあらへん』

 視線を緩めたサイコは諭すような声で続けた。

『茴香かて、ようく、わかっとる。あの子に考える時間あげたってえや』

『…………はい』

 アンカリアは渋い顔で再び前を向いた。

 サイコはそれを横目で見届け、点々と宙に浮く灯りを指差す。

『きみもゆっくり休み。ほら、もうすぐ到着やで』

 それは高く塗り固められた城壁の上にある、見張り台のものだった。

 ガーデニアに辿り着く前に一ヶ所、キャラバンは都市を経由することになっていた。

 鉄壁の街“トレスリー”。

 近づくにつれ、ほぼ真上を見なければならない城壁の高さに圧倒される。強固な壁の内部へは門を通る以外にはなかった。金属を何枚も重ねた巨大な門は、夏の民がやってきた方と、ガーデニアへ続く道の二カ所にのみ設置されていた。

 悪の巣窟と見紛うそれが開かれ、キャラバンを迎え入れた。

 

 

 排他的な外観にくらべ、内側では活気が溢れていた。

 大通りには住人が押し寄せ、窓という窓からも身を乗り出し、歓声と拍手を送っていた。セコンとは異なり、彼らは誰しも腕章か制服を身につけている。門番と、季節の民の通り道をつくる警備の服装は一目で区別がつけられた。何種類も見かける腕章にも違いがあるのだろう。整頓されつくした規律に則って、それぞれが役割を果たしている。

 夏の民を迎え入れた人々は、わずかな季節の訪れを祝っていた。彼らは当然、民に巻き起こった事件など知らない。例年通り、限られた夏を盛大に祭って過ごす。

 そのはずだった。

 ちょうどキャラバンの行進が都市の中央を過ぎた頃。

 突如、立っていられないほどの揺れと、大地が割れたかのような轟音が襲いかかった。

 キャラバンから見て二時の方向で、土煙がどの建物より高く上がった。そこから黒い液状のものが溢れ出し、灯りを飲み込みながら広がり続ける。

「な……悪魔の群れ!?」

 誰かのその言葉を皮切りに、幾重もの悲鳴と怒号が爆発した。

 アンカリアは、むしろ人々のパニックに怯んでしまった。そんな彼女を叩き起こすように、冷静で尖った声が脳へ刺さる。

『解除!』

「!」

 アンカリアは目が覚めるようだった。

(カズラは使命を全うしようとしているのに、わたしは……! 

 気にならないと言えば嘘になる。茴香君たちのことだって。

 でも、それ以前にわたしはレイン。悪魔から、戦えない人たちを守らなきゃ)

 彼女は強く答えた。

「Gambir iubeo Ramulus 鼓動を解け!」

 アンカリアの声で力を得たカズラは、戸惑う人々の山を飛び越える。

 高く跳んだカズラを彼女が見つけるのは容易だった。

 オレンジの柔らかい髪に美しい曲線の輪郭が隠れるわずかな瞬間。光を宿したブラウンの瞳はアンカリアを一瞥もしなかった。

 迷わず直行したカズラに、彼女は何か言い損ねたような歯痒さを覚えるが、変わらぬ頼もしさにもほっと息をついた。

 その時、走り回る住人の誰かとアンカリアはぶつかってしまった。

 死に物狂いの勢いに揺れた彼女を、ぞっとするほど白い手が支える。

 アンカリアが、その白芷のように透き通る肌を辿って見上げれば、サイコの涼やかな紫色に繋がっていた。

「先頭、下がり! 当帰(とうき)と藁本(こうほん)、前へ!」

 サイコの指示で御島一派の若い男が二人、前線へ踊り出る。彼らは揃えたように一枚の紙を構えた。落書きのように黒い線がうねっていたが、仕組みとしてはガーデニアを囲う結界と同じもの。

 ここで食い止め時間を稼ぐ算段だった。

 薄い光の膜が宙に張られていく。

 そしていよいよ、波のような漆黒が目前に迫った。しかしどれだけ近づいても、一つ一つの悪魔や異形の形は見えない。

 ただその黒い塊に、アンカリアは見覚えがあった。

「……ニグレード?」

 

 

 □■□

 

 

 トレスリーの一区画は丸ごと黒い波に覆われていた。飛び飛びに数軒、かろうじて屋根を覗かせている。

 カズラは超人的な——悪魔のような脚力で、その建物伝いに激流を渡っていた。

「最悪だ……!」

 都市を飲み込む黒が何なのか、彼はとっくに気付いていた。大規模な暴走が招く事態も予測している。旧友を——本人同士は認めはしないが——もしかしたら斬ることになるかもしれなかった。

 ニグレードの流れを読み上流へ跳躍していくと、震源地がようやく見えてきた。

 爆発で天井と壁を吹っ飛ばしたような、四角い床が一枚浮いていた。

 あと一つ足場があれば届く距離で、カズラは声を張り上げた。

「おい!」

 その中心でチャチャが膝をついて座り込んでいた。ヘッドドレスで飾られた黒髪は俯いている。だが離れていてもわかるくらい、真紅の瞳から光を駄々漏れにしていた。

「なにをしているんだ! 抑えろ! ツバキはどう、した……」

 チャチャは涙を流していなかった。しかしその腕には彼と同じ顔が横たわり、臓腑を晒していた。腸は掘り返されたように体外へ引っぱり出されている。ちぎれた先端は、ツバキが握ったままの銃に引っ掛かっていた。

 絶句するカズラの眉は珍しく下がり、友達を泣かせてしまった子どものようだった。

 その時、彼の視界の端を白い物体がよぎった。

「うわあああん! なんだよこのバケモノ! ひぃええええん!」

 情けない喚き声をあげ、薄汚れた寝間着が前転のように宙を旋回する。白髪の隙間から覗く目は、青く光っていた。

「ポールワイス!?」

 カズラは数年ぶりに上ずった声を出した。

 ポールワイスは、長くガーデニアの任務をこなしていれば、必ず耳に入る悪魔だった。

 そしてカズラは双子との因縁を知る、数少ないクチナシでもあった。

 飛び上がったポールワイスから溶けた表皮が振り落とされる。一度ニグレードに飲まれたが、脱出したのだろう。

 全開以上の影から逃げおおせた悪魔に、カズラは思わず呟いていた。

「……嘘だろ」

 首をもたげたニグレードを、ポールワイスが電撃で弾いた。悪魔の背中から放出されるそれは、落書きのようにいびつな翼の形になった。

「ヤダヤダ来るなああああああ!」

 中間物質の海は、悪魔にとって死の海でしかない。“まだ沈んでいない場所”へ逃げるはず。

 カズラの予測通り、ポールワイスは電気の翼で水平線を目指した。御島一派の結界の先、住人と季節の民と、アンカリアのいる方だった。

 ニグレードもその後を追うように波立った。

「よせ、向こうには……!」

 カズラは声を荒げるが最後まで言い切れなかった。

 チャチャは明らかにコントロール不能だった。

 引き潮の要領で、沈んでいた屋根が影の中にうっすらと見えた。今それを足場にすれば、カズラは双子の元まで辿り着けるだろう。

 しかし悪魔にとっての死の海はクチナシにとっても同じ。中間物質は、クチナシも悪魔と見なして侵蝕する。

「チッ!」

 カズラは迷わず足を突っ込んだ。

 痛みの警鐘感覚と、体内の“人間”が悪魔に置き換わっていく悪寒が脳髄まで駆け上がった。

 押し流す力にもバランスを崩されそうになり、カズラは再び舌打ちをする。浅瀬で全力疾走するように無駄な力が要った。

 一歩踏み出すごとにアンシスを握りしめる。

(悪魔化なんてするなよ……! 間に合え……!)

 カズラはようやく、血が染み込んだ古い絨毯に乗り上げた。

「おい……」

 カズラは無自覚のうちに、泣きそうな顔になっていた。

 彼の瞳に映るそれは、趣味の悪い芸術家が遺した人形のようだった。チャチャは蝋で固められたように動かない。ツバキの身体はとうに体温を失って青白く、内蔵がこれ以上ないほど黒く変色していた。

 しかしそこから漂う腐臭が、確実に、彼女が生きていたと訴えていた。

 カズラは押し込めたように低く、低く唸った。

「……起きろ」

 そして、罵り合ってばかりだったチャチャの胸倉を、両手で掴んだ。黒い剣は音を立てて床に落ちる。

「まさかツバキが蘇るのを待ってるんじゃないだろうな。あんな思いをさせる気なのか。だいたい、もうありえない時間だとわかっているだろ。

 ニグレードを収めろ。このままじゃ人間が死ぬ。……お前を処分しなくちゃいけなくなる」

 チャチャはされるがままに、だが目だけはツバキから離さなかった。

 彼の胸倉を握る力はどんどん強くなり、黒いワンピースにも皺が寄る。

 何も答えないチャチャに、思わずカズラは歯を食いしばった。つい自分の唇を噛み切ってしまった。そして激情のまま、いつだかチャチャが自分を繋ぎ止めた言葉を口走っていた。

「悪魔に堕ちる気か! あいつらと同じになるのか!?

 チャチャ!」

 真紅の瞳がゆっくり、ゆっくりとカズラを映した。

 石膏のような頬を一筋の雫が滑る。

 チャチャは口を開きかけ、閉じ、そして意識を手放した。

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