花言葉:喜びを運ぶ

 

 

「おかえり」

 朝焼けの中、サイコは一人で戻ってきたアンカリアを迎えた。

 彼の周りには黒い砂山がいくつもあった。

 アンカリアの目元は赤くなってしまっていた。

「……終わった」

「そうや。もう、終わったんや。

 みんな救われたんや」

 サイコは彼女の肩にそっと手を添える。

 彼女はマクスウェルを封じた本と、カズラの遺品を抱えていた。

 

 

 □■□

 

 

 天の岩戸を通り、二人はガーデニアへ着いた。彼らが最初の帰還者だった。

 皆が勝利と夜明けを祝い、生きて戻ったアンカリア達を熱く迎えた。

 フェルシュを始め、アンカリアは“家族”に強く抱きしめられた。その間も、どこか夢を見ているような感覚だった。

 ふと、彼女は抱えたままの本を思い出す。

(これ……)

 賑わいからそっと抜け出し、アンカリアの足は昇降機へ向かっていた。

 つる性の植物を模したそれは、乗り場が軸を中心にくるくると回って登る。

 彼女が身を任せると景色も回転を始めた。各フロアが溶けたように眼下へ流れ落ちて行った。

(……本当に、終わったんだ)

 上昇するほど太陽に近づく。陽光が今日はやけに眩しかった。

 昇降機から降りて蔦のカーテンを抜けると、相変わらず鏡のような水面が広がっていた。

「真面目だね」

 突然かけられた声に、アンカリアは本を落としそうになった。

「ジャスミン、どうして!? それに、声が……!」

 原初のクチナシである彼女は、道理であれば砂になっているはずである。その声は心話術ですらない。

 会えて嬉しくないわけではないが、アンカリアの中でサイコの言葉が反響していた。

 

 ——ジャスミンは、何か隠しとる。

 

 ジャスミンがアンカリアの抱える本を指した。

「彼を待っていたんだよ」

 ジャスミンが瞳を開く。

 そこには青い光が宿っていた。まるで悪魔のように。

 アンカリアの声に警戒が混ざる。

「あなたは……一体何者なんですか」

「君の知る言葉に、私を表すものはないよ」

 ジャスミンの言葉の直後、アンカリアの腕が勝手に動いた。

 持ち主の意思に反し、本は水面へ落とされてしまった。

 孤島に日陰を作っていた石の屋根が、柱と共に宙へ浮く。丸い屋根を中心に柱が十二時、三時、六時、九時の場所へ一本ずつ並んだ。そのまま、厳重な扉を開けるように時計回りに動く。すると本当に扉があったように、柱と屋根は奥へ消えて行った。

 吸い込まれた先は、青空とは程遠い闇だった。時折、濃い紫の稲妻のようなものが走るが、中はよく見えない。空間が歪んでいることだけはわかった。

 ジャスミンは平然としていた。

「よくやってくれた、アンカリア。

 マクスウェルが余計なことを言っていたが、信じるかは任せよう」

 湖に沈んでいた本が、積み上がった面がそのまま接着されているようにせり上がって来た。アンカリアの背をみるみる抜かすそれは、長い積み上がりの脇にやや短い積み上がりが手足のようにくっついていた。そんな本の巨人が何人も現れ、次々と水面から這い上がり、空間の歪みへのっそりと歩いていく。

 呆気にとられているアンカリアに、ジャスミンは続けた。

「……輪廻することを、限りある命を、恨むか?」

 ジャスミンの口元は白い布で覆われたままだった。問いかけるわりに、どこか沈んだ、寂しそうな声だった。

 アンカリアは何も答えられなかった。

「朝が来て、夜が来る。その巡りを止めることはできない。止めてはならない。

 だが原初の悪魔が拒んだことが始まりだった。

 奴等は夜を縫い留め、その下で命が回るようにした。君達の立場で言うなら……天の国へ帰らず、地上の監獄に閉じ込められているような状態だ」

「……マクスウェルは、その命を全て悪魔にしようと?」

「さあ。悪魔の考えることはわからない」

 話をしているうちに、巨人の最後の一人が空間の歪みへ足をかけていた。

 ジャスミンは続けた。

「どちらにせよ、彼と同じことは決してしないでくれ。

 お前達と戦いたくはない。

 ……ここは居心地が良かった」

 ジャスミンは背を向け、空間の歪みへ入ろうとする。少し足を止めた後、ゆっくりと彼女は振り返った。

「餞別に伝えよう。

 スマイラックスとサティバは相討ちになってしまったが、エリオットは無事だ。

 もう、この世界に悪魔はいない。

 巡る命を脅かすものは、もういない」

 そして捲き上げるような強風が一陣、吹きすさぶ。

 アンカリアは目を瞑り、ベレー帽を押さえた。

 彼女が次に目を開けた時には、ジャスミンや本の巨人の姿は無かった。

 水面はことごとく白いタイルに置き換わり、空から射す太陽の光を返していた。

(……空)

 マクスウェルの台詞が蘇った。

 

 ——けど、どうしてそんなに魂がぐるぐるさせられてっかわかるか?

 ただそうしたい連中がいるんだよ。あの空の上に。

 死を与え、悲しみで引き裂く悪趣味な連中だ。

 

(ジャスミンは、“連中”だった?)

 アンカリアの中で点と点が結びつく。

 彼女は急に身体が重くなった気がした。耐えきれずにその場へ膝をつく。

(それじゃあわたしたちが今まで戦ってきたのは、カズラがあんな思いをしてまで戦ってきたのは……)

 その時だった。

『大事なもの、いっぱいできちまったもんな』

 アンカリアが弾かれたように顔を上げる。

 だがそこには冷たいタイルが広がるだけで、誰もいなかった。

「……マクスウェル?」

 青い悪魔が、そよ風の似合う笑みを浮かべた気がした。

 それと同時に、最上階の唯一の仕切りであるカーテンが勢いよく開かれた。

「アン!」

「エリオット……」

 呆然としている彼女に、エリオットが駆け寄る。

「生きていたか! サイコが探していたぞ」

 彼は膝をつき、アンカリアへ目線を合わせた。

「他のレインは? まだ戻ってないのか」

 エリオットは当然のように、クチナシについては聞かなかった。

「……スマイルとサティバは相討ちになったって」

「そうか……」

 エリオットの視線が沈む。その後、はたとアンカリアへ向けられた。

「おい。どうしてそれを?」

 アンカリアは口を開いて、閉じ、を数回繰り返した。言葉がなかなか決まらなかった。

 ようやく声にした彼女は俯いた。

「ジャスミンが、最後に。

 悪魔も、もうこの世界にいないって……きゃっ!?」

 エリオットが唐突に、アンカリアを強く抱きしめた。

「フェルシュにもやられただろ。喜びのハグってやつだ。そのうちみんなにもされるぜ」

 そしてエリオットは何事もなかったかのように、彼女を解放する。

 彼は先に立つと、彼女へ手を差し伸べた。

 アンカリアはそれに目をしばたかせる。やがておずおずと彼の手を取った。

 立ち上がる彼女を手伝うように、優しく風が吹き込んだ。

 最上階からは、ガーデニアの景色がよく見えた。果てしない緑、惜しみなく注がれる太陽。

(もう、悪魔はいないんだ。戦わなくていいんだ)

 アンカリアは、何かがすとんと喉を過ぎた気がした。

(生きて死ぬこと自体、仕組まれていたことかもしれない。マクスウェルが正しかったのかもしれない。

 でもわたし、この世界が好き。大事なものがたくさんある、この世界が。

 命をかけて戦えるくらい。

 何が真実かわからないけど、だからこそ考えて、調べなきゃ。

 カズラ、みんな。

 あなた達と勝ち取った時間が、わたしには残されている。

 わたしは、あなた達と過ごしたわたしとして、生きていく)

 

 

 人間に真実を追求する術はない。彼女はそれを忘れることもできない。

 大切な人を、クチナシを失った心はまだまだ痛むだろう。

 だが戦争は終わった。

 全てのクチナシに課せられた死後の戦いは終わった。

 ガーデニアの緑は、陽光で輝いていた。

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