花言葉:あらゆる試練に耐えた誠実

 

 

 ガーデニアへ来てまず、ボクは視線のうるささにうんざりした。

 

 ——リリアっていうんですって。かわいそうに。あんなに幼いのにクチナシになるなんて。

 ——でも孤児は他にもいる。辛いのはあの子だけじゃないよ。

 ——そうね。頑張らなきゃね。

 

 すれ違う人間の目が、好き勝手に語っていた。

 そんなボクの前にそいつは現れた。

「貴様の担当となったリリー班レイン、スマイラックスだ」

 背が高い大人がボクを見下ろして言った。死んだこともないクセに偉そうに。

 いつだって大人は自分達の都合良い方へ“子供”を追い立てる。舐めているのか知らないけど、励ましているフリなんてバレバレだ。

「……私にも、共にここへ来た兄弟のようなレインがいる」

 ほら来た。

 境遇が似ているって? 大切な人を守るために戦えって? そんなの誰よりもわかってる。どうしてボクが、なんてとっくに思わなくなった。

 だけどいい加減にして。腹も膨れない『かわいそう』や無責任な『がんばれ』は、もう聞き飽きたんだよ。

 戦うのはボクじゃないか。

 教育係の男は、仏頂面で眼鏡を押し上げた。

「そいつが今どうしているかは知らないが、奴に負けてなどいられない。

 万が一、再会した日に腑抜けたツラを晒せば殴られるだろう。もちろんあいつがそうだったら私が喝を入れてやる。

 どのみち、理由をこじつけて殴り合いになるがな」

 そこでニヤッとしたそいつが、急に悪戯好きのガキ大将みたいに見えた。

 ボクはあきれてしまった。

(正装で喧嘩って……)

 いい歳してボクより精神年齢低くない? そう笑っただけで、別に釣られてなんていない。

 だから、屈んでまで目線を合わせるそいつが、どことなく嬉しそうにする理由なんてないんだ。

「私が戦う動機などそれだけだ。特に崇高なものなどない。

 そしてこれから共に戦う貴様に頼みがある」

 がんばれとも、可哀相にとも言わないんだ。言って欲しいなんて思っていないけど。

 その人は続けた。

「もし私が腑抜けた時は、殴る……のは厳しいか。そうだな、ケツでも引っぱたいてくれ。

 奴の右フックはなかなか重いんだ」

 ボクが彼をニックネーム——スマイルと呼ぶようになるのは、次の日からだった。

 別に嬉しいからじゃあないんだ。

 

 

 □■□

 

 

 南といえど、寒さがより厳しくなる果ての地。

 針葉樹の森を貫く一本道は、徒歩を強制するように狭い。

 霜に覆われた大地を、スマイラックスとリリアのスパイクが踏み進む。二人の胸には、百合のブローチが光っていた。

 真っ白な吐息の向こうに、スマイラックスのよく知る姿があった。

 緑色の髪、神経質に角張ったフレームの眼鏡。冷たい風にサティバの白衣が翻っていた。

「やあ。待ちくたびれたぞ」

 その隣ではリリアの知らない少女が、遠目にも身を強張らせていた。深い紫のワンピースは足首まであり、胸元に赤い宝石が刺繍されている。また、長袖だが肩だけ切り取られたように露出しているデザインだった。

 二人とも、ガーデニアのマントはおろか、ブローチすらつけていなかった。

 スマイラックスの顔が苦々しく歪められる。

「サティバ……」

「“バ”ではない、“ヴァ”だ」

 風が止み、耳が痛いほどの静寂。

 直後、金属がけたたましくぶつかった。

 クチナシを置いて、スマイラックスとサティバが互いの得物で凌ぎを削っていた。スピードは互角、激突はちょうど中間地点。

 遠心力で恐ろしく加速したヌンチャクを、同じような銀色が止めていた。より太く単一のそれは、鎖で繋がれておらずグリップが直接ついている、トンファー。長さはサティバの手から肘までを越えて余っていた。

 スマイラックスは舌打ちをこぼす。

「チッ」

 トンファー相手に何度稽古をしたことか。

 手の内は互いによく知り、よく知られている。わずかでも出遅れれば致命傷になるため、スマイラックスは次の瞬間にもう片方を振り上げていた。

 サティバが同じ腕で滑らかに追撃を制する。次いでさりげなく回転をかけ、トンファーの先端で鎖の部分を狙った。

 案の定絡め取りに来た、とスマイラックスの意識がわずかに右へ逸れる。その時、左頭部に嫌な感じ。

「っ!」

 彼がハッとした時には、目前までトンファーが迫っていた。

 スマイラックスは間一髪で身をのけぞらせる。トンファーのリーチ外まで下がるが、当然ただでは引かず顎を目掛けて一撃を振るう。

 それを真似し、身体をそらせて避けたサティバは、わざとらしくおどけた。

「どうした、攻撃がワンパターンだぞ」

「……貴様こそなんだ。腕が鈍ったか?」

 双方、とっくに息は整っていた。

 リリアがスマイラックスの隣まで走り寄る。

 スマイラックスは目線も寄越さず低い声で言った。

「アヤメは伸縮自在の爪を使う。そしてあの性格だが戦闘経験は多い。

 近づく際は用心しろ」

 しかしリリアは力強く頷き、首に下げた小瓶の蓋を回した。

 完全に開くにはあと数回転というところで、蓋に歯止めがかかる。本体と蓋の境目を跨ぐように描かれた文字がズレて、再び異なる印を形どっていた。

 解放されたボルドーの光に、ほう、と好奇心を隠さずサティバが呟いた。

「面白い。

 ジャスミンは仮解除を完成させていたのか」

 リリアの未発達な手が、ポケットから拳ほどの大きさの物を取り出す。それは白く光沢を放つオカリナだった。

 リリアが強く握ると、オカリナの白をボルドーの光が染め上げ、黒に近づけていった。

(笛……この前三半規管をやられたのもアレか。

 厄介だ)

 サティバが横目でちらりと少女を見やる。

 たったそれだけの動作でアヤメの肩は大きく跳ねた。

「……まだ何も言っていないだろう」

「ご、ごめんなさい」

 結局サティバは前へ視線を戻し、命令を下した。

「スマイルはお前の手で殺さねばならないが、まずはあのクチナシを片付けろ」

 一瞬の静寂。

 人間二人の声が揃った。

「迷うな」

 前線にスマイラックス、アヤメがそれぞれ躍り出る。

 アヤメが大きく鋭利な爪を振りかざすが、それをヌンチャクがいなす。

 彼女の背にオカリナの音波が迫るが、アヤメは針葉樹の幹まで爪を伸ばし避けた。

 スマイラックスはアヤメを流した勢いのまま身体を回転させ、死角を突いてくるトンファーを受け止めた。

 震えるほど押し合うが、サティバは口角を吊り上げていた。

「ジャスミンはひどいことをするなあ、スマイル?

 よりによってお前を送り込むなんて。お前以外だったら瞬殺していたのに」

 一度弾き合い、再び踏み込む。

 互いを砕かんと響く金属の傍ら、リリアは音波でアヤメを近寄らせないが、歴戦の彼女を撃ち落とすに至らない。

 サティバは、騙し合いと殴り合いを両立させながら、饒舌だった。

「さらに言えば、スマイル。お前の悪魔化でこちらの戦力は跳ね上がる。彼女の計算ミスだ」

 彼の言葉は一瞬、リリアに動揺を与える。

「あっ……!」

 その隙をアヤメは見逃せなかった。

 しかし彼女の爪は空振りし、冷たい大地に突き刺さった。

 スマイラックスがリリアの首根っこを掴んで引き寄せていた。

「ジャスミンは全て承知の上で、任務を与えた」

 彼は、ヌンチャクを構えた。

 

 ——スマイラックス、酷だとはわかっている。

 ——これは戦争だ。貴女が気に病むことではない。それに——。

 

「貴様のような捻くれ者とやり合えるのは、私だけだ」

 突っ込むスマイラックス。

 何の合図が無くとも、リリアは音波でアヤメを遠ざけ援護する。不可視の弾丸は、避け損ねたサティバのバランス感覚を奪った。

「ぐっ!」

 サティバは、前回よりは直撃しなかった。しかしフラついてしまっては、風を切るヌンチャクを受け止めきれない。

 唸る銀色が振り下ろされる。

「終わりだ、サティバ」

 その瞬間、眩いほどの閃光が二人を分かつように走った。

 スマイラックスは辛うじて後ろに跳ぶ。

「電撃……!?」

 それはヌンチャクの打撃で生じる光ではなかった。

 スマイラックスから見て二時の方向に、絶望に塗りつぶされたアヤメ。

 彼女が指差すように伸ばした漆黒の爪が電気を帯びていた。 

「……どういうことだ」

 スマイラックスは、そう言わずにはいられなかった。

 クチナシは発電器官を持たない。

 雷撃を繰り出せるということは、すなわち悪魔ということだった。

 平衡感覚を取り戻したサティバが続ける。

「そこのクチナシは初対面だったな? スマイルにも改めて紹介しよう。

 南を司る大悪魔、アヤメだ」

 見開かれた紺色の瞳に、サティバは愉悦の笑みを浮かべた。

 スマイラックスが、かつてない程に声を荒げた。

「なぜだアヤメ! なぜ悪魔になった!?」

「原初の悪魔に勝利したのだよ。今やこのエリアの杭も、悪魔も、全て彼女の支配下にある」

 スマイラックスはヌンチャクを落としてしまいそうになった。

(なんてことだ……いや、待て。

 クチナシが悪魔を退治しただけで成り代わることはない。

 さらに、本当にアヤメが悪魔ならば、サティバが平然と側にいることは出来ないはずだ)

 彼の脳裏を最悪の予感がよぎる。そして浮かんだ結論が怒号を吐き出させた。

「貴様、まさかアヤメで“実験”を……!

 人を食わせたのか!」

 

 ——クチナシが食人欲求を起こすのは一度切り。それを越えれば完全な“生命体”となる。

 その後は栄養……他の生物を摂取する必要がなくなる。

 

 サティバは眼鏡のブリッジを押し上げた。

「……不可抗力さ。ナルコも間に合えばよかった」

「サティバ貴様あ……!」

 リリアは、握り締められぎちぎちと軋むヌンチャクに気づく。

(スマイルが怒ってる。

 いつもそんな顔してるけど、今は心が怒ってる)

 言葉すら発せないほどの怒りを迸らせ、仁王立ちをする喪服の背広。

 スマイラックスの前にアヤメ、改め南の大悪魔が——俯きながら立ちはだかった。皮肉にも、青紫の綺麗な髪は何も変わっていなかった。

「アヤメ、退け。貴様は戦うべき相手ではない」

 スマイラックスの低く押さえつけた声に、アヤメは身体をびくつかせる。叱られた子どものように、涙の膜が張り詰めていった。

 その様を嘲笑うように、勿体つけるように、サティバが口端をネトリと吊り上げる。

「アヤメ、早くしないと……」

 意地悪く急かす言葉が、崖っぷちに立たされた悪魔の背をつついた。

 アヤメが弾かれたように顔を上げれば、紫の光だけでなく、涙も煌めく。

 一瞬だけその瞳がスマイラックスを映し、そして全てを拒むようにきつく閉ざされた。

「う、うああああああ!!」

 慟哭に寄り添う、霜を吹き飛ばし大地を削る放電。

 普通なら死を覚悟するが、なかば自棄になったその攻撃は、スマイラックスには充分大振りだった。

(威力こそ甚大だが……抜ける場所はある。ここだ!)

 彼は最小限の被害を見切り身を翻した。掠めた部分が細かく焦げる。

 しかしそれだけではなかった。

「…………っ」

 大技を目潰しに使ったアヤメの、大悪魔の黒い爪がスマイラックスの腹部を貫いていた。

 加害したはずのアヤメが、壊れたように震え声を垂れ流していた。

「……あ…………ああ……」

 やがて大悪魔は、自らが生み出した光景に耐えられなくなり、腕を引き抜く。

 スマイラックスの、心臓に近い位置から鮮血が吹き出した。

 リリアはつい、オカリナから口を離してしまった。

「スマイル!」

「Sigillum de Polygonatum 仮の名に眠れ」

 サティバが封印の呪文を唱える。

 リリアの、ボルドーの光が強制的に鎮められ、小瓶も自動で巻き戻された。

(しまった、仮封印!)

 仮封印に使われた、聞いたこともない名前が、処分されたクチナシ——ナルコのものだとリリアは知る由もない。

 再び小瓶を開けようとしたリリアの目前に、イエローの瞳と鈍く光る銀。

 サティバはただの子どもとなった彼を殴りつけ、転がるオカリナを踏み砕いた。

「やれやれ。厄介な能力だった。

 後で実験体二号にしてやる。それまで大人しくしていることだな」

 そして彼は意識を飛ばさせるべく、革靴をリリアの鳩尾へめり込ませた。

 

 

 □■□

 

 

 南の果て、針葉樹の森の最奥に、少し拓けた場所がある。

 そこに静かに佇むのは、時間に忘れ去られた、古い祠。積雪と風化に耐え続けた岩の塊は、遠目からは墓標のようだった。

 その前に、人間が二人と悪魔が一つ在った。

「苦しそうだな。スマイル」

 嗤うサティバの足元に、腕を縛られたスマイラックスが横たえられていた。

 息も絶え絶えで、意識を保っているのが不思議なくらいの出血だった。青褪めた顔は喪服によく映え、この地を覆う霜に溶けてしまいそうだった。

「すぐ楽にしてやる、っ!」

 サティバは慌てて親友の口へ手を突っ込んだ。

 背筋が粟立つような、ごり、と骨同士が擦れる音がした。

「舌を噛もうとするとは……油断も隙もないな」

 スマイラックスの口端からは唾液と、彼のものではない血が垂れる。

 サティバは指と入れ替わりで、几帳面に畳まれたハンカチを、猿轡の要領で無造作に詰め込んだ。

 スマイラックスの眼光は身動きできないとは思えないほど鋭かった。

 指を舐め上げながら、サティバはくつくつと喉を鳴らした。

「……それでアヤメ。お前はいつまで泣いているつもりだ?」

 先刻から続く、ついさっき壮絶な雷撃を放ったとは思えない、儚く弱々しい嗚咽。

 この地で女王として君臨しているはずの悪魔は、両手で顔を覆い、座り込んでいた。凍えているかのように身を震わせている。

 ため息をついたサティバがアヤメの側で身を屈める。そして華奢な肩へ腕をまわすと、耳元で囁いた。

「お前は私に逆らえない。私の言いなりになるしかない。哀れな被害者だ。諦めろ」

 爪を出せ、とサティバは無慈悲な声で命令した。

 しかしアヤメはいつまで経ってもぐずぐずしゃくり上げるだけ。

 彼は舌打ちのあと、乾いた音で大悪魔の頬を叩いた。

「二度も言わせるな。それともスマイルを生きたまま食らいたいのか?」

 不機嫌を露わにした声に、躾けられたアヤメが逆らえるはずもなく。大きく頭を振って、より震えながら腕を前へ差し出した。次の瞬間には、一本の爪が地面に突き刺さりそうな長さになっていた。

 サティバは彼女の腕を乱暴にわし掴んだ。そのまま剣のようなアヤメの爪を、スマイラックスの首元にあてがう——否、あてがおうとした。

 しかし見えない何かがそれを弾き、サティバは覚えのある目眩に襲われた。

(クチナシ……!?)

 悪魔の祠から逃れる唯一の道に、より輝度を増したボルドーの光。

 それを全身に纏うリリアがいた。

 彼が奏でる歌声は、先程と比にならない程強力で、神を讃える言葉を乗せていた。

 アヤメは再び縮こまり、爪が戻った両手で耳を塞いでいた。何もかもを拒絶するように、目を強く瞑っていた。

 その横でサティバも膝をつくが、なおも観察を続けた。

(どういうことだ。笛はたしかに破壊し、封印もしたはずだ)

 よく見れば、リリアは時折喉を押さえていた。意識を飛ばす程の蹴りを食らったせいで足元は覚束なく、苦悶に顔を歪めてる。

 容赦ない音波に晒されながらも、サティバの脳が回り始める。

(悪魔化していたのは声帯だったのか? 聞いたこともない。なにかしら中間物質の塊を生ずるはずだ。レインが解除できるのはデミの放出に関わる部分だけ。それが無ければクチナシとしての戦力が成り立たない)

 この間、わずか数秒。

 嘘のような速度で、彼の脳は一つの答えを導き出した。

(…………いや。ガーデニアで施される根元の封印ごと小瓶で解除をしていたと考えれば、辻褄は合う。あれは仮解除ですらなかったのか)

 歌うクチナシは小瓶を完全に開けていた。蓋は見当たらない。

 サティバが舌打ちをするが、それも絶え間ない音波に搔き消された。

(あわよくば全開でオレ達を撃破。あのクチナシが完全に悪魔化してもオレを始末できれば良いと。

 どういう教育をしたのか知らないが、ジャスミンめ。むごい細工を……)

 耳を庇いながら、サティバは隠し持っていた銀の銃でリリアの足元を撃った。本人を狙って万が一はね返されてはアヤメもダメージを負う。

 破裂した日光で歌声が一瞬途切れた。

 その隙にサティバは早口で言った。

「アヤメ、あいつはオレが始末する。お前はスマイルにとどめを刺せ。

 Solfla ma ……くっ!」

 だがそれは時間稼ぎにもならなかった。

 サティバの呪文を跳ね除けた賛美歌は、いつの間にか言葉の輪郭を崩し、リリアの想いだけを運ぶ“音”になっていた。

『アヤメさん』

 青紫の悪魔はハッと顔を上げる。

 明確な言葉ではなかった。だが間違いなく、歌声は彼女を呼んでいた。

『あなたに何があったのか、ボクはわからない。

 だけど、あなたもスマイルの“生徒”なんだよね?

 一緒に戦おうって、言われたでしょ?』

 音波がアヤメを蝕んでいたが、彼女は目を逸らせなかった。

『ボクを刺す瞬間の、泣きそうな顔を見ていたよ。

 あなたは優しいクチナシだ。

 一緒に戦おう』

 青紫の瞳が大きく開かれ、静かに涙を落とした。

 

 ——さらに言えば、スマイル。お前の悪魔化でこちらの戦力は跳ね上がる。彼女の計算ミスだ。

 ——あっ……!

 

 サティバがリリアに動揺を与えたあの時。

 声を漏らしたのは、アヤメだった。

 サティバは忌々しげに、憎しみを露わに吐き捨てた。

「知ったような口を……!」 

 今の彼に薄ら笑みはなく、リリアに銃の照準を合わせる。もはや外してやるつもりはなかった。そこまで撃ち込んでやるつもりだった。

 そのせいで、彼は気づかなかった。

「…………ごめんなさい」

 アヤメは消え入りそうな声で、座り込んだまま頭(こうべ)を垂れていた。

 だがその爪は、背後から正確にサティバの心臓を貫いていた。白衣に赤が高速で広がる。

 誰もが驚愕していた。リリアの歌も止んでいた。

 サティバは信じられないものを見るように、首だけ振り返った。

「アヤメ……?」

 銀の銃が滑り落ち、彼はスマイラックスの横へ伏した。太い血管を切ったのか、出血が比にならなかった。

 アヤメは爪を引き抜き、血塗れのままスマイラックスの腕の縄を切った。口のハンカチも取り除く。

「ごめんなさい。サティバが無理矢理人を食べさせたんじゃないの。

 わたしが自分に負けてしまったのっ……。

 サティバが、クチナシの食人欲求が一度きりと気付いたのもわたしの所為。メンテナンス不要の、悪魔でもクチナシでもないものになっていたから……!」

 勢いだけで吐露しきった大悪魔の声を、リリアは初めて聞いた。

 それはハミングが似合いそうな、澄んだソプラノだった。

 サティバが、白衣と霜に血を撒き散らしながら呻いた。

「なぜだあ……アヤメ……!」

 彼は大きく咳き込み、口から赤を吐き出した。

 アヤメは酷い有り様の彼に縋り付かなかった。だが幾筋も涙をこぼした。

「サティバ、ごめんなさい。

 裏切る形になってしまうけれど……あなたの所為にするのは、もうやめます」

 アヤメがゆっくりと立ち上がる。

 かつてこれ程までに凛と背筋を伸ばす彼女を、サティバもスマイラックスも見たことがなかった。

 霜を蹴りアヤメは祠へ駆けた。

 サティバが瀕死とは思えない程、はっきり彼女を呼んだ。

「よせ、アヤメ! 杭を抜けばお前も……!」

 彼の制止を振りほどくように、大悪魔は鋭利な爪をさらに大きく太くした。

 彼女を勇気づけたものが声ならば、彼女が応える術も声だった。

 アヤメは止まったはずの呼吸で、覚悟を腹の底から叫んだ。

「ああああああっ!」

 アヤメは——イリダ班のクチナシは、森の祠を引き裂いた。

 かすかに視認出来る程度だったが確実に、夜空へ何かが飛び上がる。

「…………馬鹿が」

 それを最後に、サティバは動かなくなった。

 彼に呼応するように、アヤメの腕がだらりと下がる。そのまま彼女は糸が切れたように膝をついた。言うことを聞かない身体に鞭打ち、肩越しに振り返った。

 リリアはつい身構えるが、その必要はなかった。

 彼女の指先はすでに砂粒と化し、その侵蝕は駆け上がるように進んでいた。

「君、ありがとう」

 アヤメは瞳を優しく細める。青紫の光はどんどん弱まっていた。

「スマイル、お姉ちゃんを助けてくれてありがとう。

 ……ずっと好きでした!」

 明るく振る舞う姿にナルコが重なり、スマイラックスの顔が歪んだ。

 クチナシは滅びるが最善。それは百も承知していた。

 血が足りないながらも、スマイラックスの指が伸ばされた。

「アヤメ……!」

 その先で、水平線から涌きだす陽光が、彼女の姿を押し流した。

 スマイラックスの中で、アヤメとガーデニアで最後に交わした言葉が蘇った。

 

 ——あ、あのね、スマイル……次に会ったら、伝えたいことがあるの。

 

 

 

 祠の前には灰色の砂が一つ、小さな山になっていた。血染めの白衣を着た亡骸がそれを見つめている。

 夜を縫い付ける杭が放たれ、日が登り始めていた。

 針葉樹でまだ遮られているが、広場の内部も明かりが刻々と強くなっていた。

「スマイル!」

 リリアは一息つく間もなく、小さな両手でスマイラックスの腹部を圧迫する。

(封印を全開放にして歌えば……!)

 歌声には、わずかに治癒能力があった。現にスマイラックスの傷口はまだマシなものになっている。問題は出血だけ。

 正直なところ、リリアの悪魔化も相当進んでいた。懐かしい空腹を薄っすらと感じてすらいた。

 しかしスマイラックスは力無くそれを制し、ブラウンの髪にフードを被せた。

「いい」

「なに言って……待ってて、応援を頼むから!」

「ガーデニアへ、戻れ……直射日光を浴びなければ、滅びずに……っぐ、済む。

 杭の影響が及ぶ、前に、ジャスミンの元へ……」

 スマイラックスは腹の風穴に構う気は無い。彼の目尻から透き通った雫が一つ落ちた。

(……慣れたつもりだったが)

 置いて逝かれることは、懲り懲りだった。

 ようやく師の元へ旅立てる。もう戦うことも、悪魔に気を張り詰めることも、仲間を失うこともない。

 彼はそう思っていた。だが顔をぐしゃぐしゃに歪めた。

(誰か、守ってくれ。リリアを。アンカリアを。ガーデニアを)

 致命傷の痛みではなかった。置いて逝くことが、教え子の前でなりふり構わなくなる程、苦しかった。

 だからせめて、と彼は声を振り絞った。

「行け。俺に構っていては間に合わなくなる。

 ……情けない、大人ばかりで……すまない。これからは……が…………」

 言い終えることも叶わず、ひゅう、と喉が使い物にならなくなる。スマイラックスはリリアの肩を弱々しく押した。

 だがリリアは消えゆくようなその手を捕まえ、強く握り返した。

「スマイルもずっと一緒だよ。そうでしょ?」

 紺色の瞳が丸くなり、細くなる。優しく弧を描いていた。そしてまばたきのつもりで閉じた目は、もうニ度と開かなくなった。

 どちらとも知れない涙が、スマイラックスの頬を一筋こぼれる。

「…………ごめんね」

 動かなくなったスマイラックスの掌が、リリアの手から滑り落ちた。

 残された少年は、初めて見る朝日に目を細めた。

 

 

 □■□

 

 

 教会の敷地を掃いていたコーネリアスがふと顔をあげる。銀髪の彼は、名前を呼ばれた気がした。 

 誰かが天を指差して叫んだ。

「おい、見ろ!」

 空が見たこともない色に染まっていた。闇色から群青、薄い青を通り白んでいく。

 コーネリアスは空に綿が浮いていることも、太陽がこんなに眩しいことも知らなかった。

 夜が明けたのだった。

「…………リリ」

 大人達が歓喜の声を上げる中、コーネリアスの目からは涙が止まらなかった。

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