走り続けていた足を止める。

 どのくらい経ったかわからない。

 先住民の村から逃げ出した俺は、気がつくと一人になっていた。ダミーの姿はもちろんない。

「……嘘だろ」

 鬱蒼とした全方向同じに見える木々、軽装すぎる自分。脳裏を遭難の二文字がよぎった。

「本当にあるのか……」

 まさか自分がそんな状況に陥るとは思わず、妙な汗をだらだらとかく。

(あれだろ、寒くて眠くなるけど実際眠ると死ぬやつ……火を焚けばいいのか? いや、俺がやると山火事になるし、だいたいそんなに寒くねえ)

 俺は混乱していた。

(あれだ、迷ったら右手を壁について進めばいいってやつ。

 ……ないな。落ち着け)

 黒にすら見える緑の木々は、いくら密集していても壁ではない。

 頭を抱えたその時、わずかな匂いが鼻を掠めた。

(水?)

 顔を上げて匂いの元を探す。

 運良く川があれば下流に沿って森を抜けられるだろう。海に出たなら、浜に沿えば港かどこかには辿り着く。

 俺は再び駆け出した。

(水があれば数日は死なないって言うし)

 つるりとした大きい岩を飛び越えた。

(……あれ?)

 パキリと割れたような——着地した先に落ちていた枝を踏み折る音が、やけに頭に響いた。

(俺、別に水いらねえ)

 絡まった蔦が通せんぼをしてくるが、すぐ側の巨木を駆け上がり、幹のような枝を踏み台にショートカットをする。

(そんなに急がなくても死なねえや)

 やる気を無くしたように、俺の足はだんだんと遅くなった。

 さっきと変わり映えのない真緑の景色が続き、どこかで鳥が鳴いている。

(つーか、なんで帰るんだっけ。

 ダミーを捕まえるため? ……いや、俺以外にも追っ手はいる。

 家族はもういない。

 別に死ぬ心配もない。

 なんでだっけ…………)

 視界を圧迫する緑色に頭が朦朧とし始めていた。走ることをやめ歩いているが、どうにか進んでいるくらいノロノロと覚束なくなってくる。

「うわっ」

 その時、白すぎる光が目を突き刺した。

 薄暗い森にいたせいで痛みすら感じる眩しさに、顔をしかめる。

 手で影を作りながらさらに進めば、森が拓け、世界が青に塗りつぶされていた。

「海……じゃねえ。湖だ」

 鏡のような水面が空をそっくり反射していた。

 水平線の木々が辛うじて天地の分かれ目になっている。おそらく、今まで通っていた森と同じくらいの密林なのだろう。

 以前ドクトルに、人は壮大な景色を前にすると、くよくよ悩まなくなると聞いた。脳内にかかっていたモヤを吹き飛ばすような雄大さに、それを理解した。

 胸がすっとするような、涼しさの心地良い風が優しく吹く。

 あたりを見回せば、湖畔にひっそりと一軒家が佇んでいた。カロライナの家のようにログハウス、というわけではないが、お手製感のあるレンガ造りだった。

(……誰かいる)

 軒先のハンモックで黒髪の男が一人、本を読んでいた。

「あの、すみませ……!?」

 声をかけようとした俺は立ち止まってしまった。

 本からモヤのような金の光が数本伸び上がり、彼の口へ吸い込まれていった。

「な……!」

 その瞬間、後頭部に悪寒が走る。反射的に身体を捌き、振り向きざまに距離をとった。

 俺と同じくらいの歳に見えるが、だいぶデカい男が立っていた。

「おや」

 呑気な声を出した男は、さっきまでハンモックにいたはずだった。空のハンモックは、気が抜けたように揺れている。

 男は黒髪の頭頂部がぴょんぴょん跳ねており、長い後ろ髪は切ったことがないのか、真っ直ぐ腰まである。

 そいつの右手には本、そして左手は俺の延髄を狙った手刀を構えていた。

 男は俺の何かに気が付いた様子で、そのまま左手を自分の顔の前へ持ってきた。

「ごめんごめん。人間だと思っちゃってさ」

 見上げる高さについてる顔は、綺麗な部類だと思う。ただなんというか、表情が全く動かず、瞬きしてるか不安になるタイプだった。あと瞳孔も開いてるのか焦点が合わず、正直怖い。

 男は全く同じ顔で言った。

「見られたら面倒だから、街に帰そうとしたんだよ」

「面倒……?」

「食事。君も発症者だろう?

 俺は夢喰い。コードネームではジュダと呼ばれている」

 ジュダと名乗った男が握手を差し出した。

「……記憶喰い、メモリー。なんでわかった?」

 悪寒も、敵意のようなものも感じられなかったので、それに応える。

「アレ、人間なら避けれないから」

 思ったよりフランクな奴だったが、行動がダメだ。

 俺はやんわりと、かつ早々に手を引っ込めた。

「ところで、君は何故こんなところへ?」

 ジュダは気にした様子もなく尋ねてきた。相変わらず、目は合っているのにどこを見てるのかわからない。

「……有害認定されてる発症者を追っていたら、いろいろあって迷っちまった」

「それは災難だったね。食事が間に合うなら明日にでも案内するよ。俺も街に用がある。急ぎかい?」

「いいや。じゃあ……頼む。食事は平気だ」

 表情が全く変わっていなかったがジュダは、おそらく快く、頷いてくれた。

「ちなみに有害って何のことだい?」

「最近制定されたんだが……」

 機関から認定されることや証書のことを大まかに説明する。

「へえ、そんなものが」

「認定証を届けに誰か来ただろ?」

「いいや。本屋の店員以外と話すのは何十年ぶりだよ」

「……お前いくつだ!?」

 ジュダは両の指を曲げたり伸ばしたり首を傾げる。

「ええと? ん? あいつに子どもできたのが十年くらい前だから……いやもっとか? とりあえず四十は越えてると思うよ」

 俺は絶句した。

「この湖、不老不死とかそういうやつか?」

「小説の読みすぎじゃないかい?」

 ははは、とさっきから寸分違わぬ顔でジュダが、おそらく、笑った。

「うちでゆっくりしてほしいけど、まずは水浴びだね」

「え?」

「泥んこだよ。何日森にいたんだい?」

 

 □■□

 

 ジュダは水浴びから洗濯までこの湖を使っているらしい。

 俺は勧められた当初、汚れを落とすことを躊躇したが、美しい湖は些細な懸念などものともせず澄み切っていた。

 しかし、なぜこいつが水浴びする俺の横で喋り続けているのかは疑問である。

「 ——それで妹に激怒されて、メロスかい? って言ったら顔を殴られてさ。

 拳でだよ。鼻が折れたかと思った」

 湖畔に座り込んだジュダは一応、こちらとは別の方を向いている。だがそれはそれで、空中の見えない相手へ語りかけているようだった。

「……なあ」

「ああ、ごめんごめん。誰かと会うのが久しぶりで、はしゃいでるな。水浴びしてる時のトークって何がいいんだろうね」

「いや……。あんた、変わってるって言われねえ?」

「うーん、どうだろう。難産だったとは言われていたよ」

(頭のネジ置いてきたんじゃねえのか)

 タオルと着替えまで借りている手前、そうは言えなかった。

 湖から上がり用意された服を着る。

(……でかい)

 謎の敗北感に舌打ちしないようにしながら裾を捲った。

「終わった。ありがとう、ゴザイマス」

「ああ。日暮れまでに間に合ったね」

「何かあるのか?」

「この湖、ワニが棲んでいるから」

 タオルを落とすかと思った。

「は!?」

「大丈夫だよ。夜行性だ」

 そうじゃねえ。文句をぐっと飲み込むと、かわりに俺もよくわからない返事が口をついた。

「……あんたは普段、どうしてたんだ」

「俺は見向きもされなかったよ」

「え?」

「最初は、発症者だからかなって思ったんだ。

 でも馬に食われそうになった発症者とか、俺の他には見たことなかった」

 ジュダはのそっと立ち上がり、俺へ手招きした。

 俺は呼ばれるままに家へ向かう後ろ姿についていく。

 長い黒髪が尻尾のようにユラユラ揺れていた。ジュダはそのまま話した。

「発症って、植物とか動物とかの食物連鎖を外れることが定義だったでしょ。

 “ピラミッドの一番上である人間より、さらに上に弾き出されて人を食らう”ってやつ。

 だけど実際は人の何かを食らう、だからしっかり人間に依存してるし、ピラミッドにも組み込まれてる。

 これは持論だけど、発症って食物連鎖が歪んだ形だと思うんだ。

 “上ではないが、人を食らう”。

 俺は植物の圏で発症したと考えれば辻褄が合う。だから肉食獣には見向きもされないけど、故郷では馬にエサだと思われてた」

 数段のアプローチを登ってハンモックの横を過ぎ、ジュダがドアを開けた。

「さあ、上がって。身体が冷えちゃうよ。発症者は風邪なんて引かないだろうけどさ」

 通された家は、男の一人暮らしにしては片付いていた。

 カーテンは無いので陽光が直接部屋を暖め、人間大のクッションが中心に置かれていた。出会ったばかりだがジュダのことだ、しょっちゅうそこで寝ているのだろう。

 いつの間にかジュダが奥のキッチンで戸棚を漁っていた。

「森が暗すぎてわからなかったかもしれないけど、まだティータイムの時間なんだ。

 紅茶くらいならあるけど飲むかい? というか俺が飲もうと思ってるんだけど」

 全くと言っていいほど使われていないだろう綺麗なシンクに、積み上がった本が目立っていた。

「えーと、じゃあ……」

「俺は限界まで煮出しちゃうから、好きな濃さで飲んでね」

「……水道引いてるのか?」

「外にタンクをつけていてね。自作なんだよ」

(作れるもんなのか……?)

 紅茶をポットへ入れながら、ジュダがとんでもない発言をかました。

 妹に鉄拳制裁をされた話より、そっちの方がよほど受けると思う。

 ジュダはまた棚を漁り始めた。

「おもてなしってどうやるんだろうね?

 茶菓子とかは買った覚えがないな。ナッツとか食べるかい? 動物用だけど。

 ああ、いらないよね。俺も食べないかな」

「お構いなく。着替えだけで充分に助かった」

「悪いね。うちには本しかなくて。

 あ、その辺の……うん、上下巻のやつ。おすすめだよ」

 家主の推薦を受けた本は、まあまあ分厚かった。表紙も手が込んでいて、箔押しされた妖精らしきものの羽がきらきら輝いている。ファンタジー系だろうか。

「夢喰いって、本が食餌なのか?」

「そうだね。

 人が夢見た、“想像”したものなら範囲らしいんだ。本当に寝てる人が見ている夢でもいいんだけど、俺が夜に強くないんだよね」

(それ以前に三食のうち一食しか賄えないだろ)

 ジュダはそんな俺をよそに戸棚から小さめのスープ皿を引っ張り出していた。

「君が記憶喰いでよかったよ」

「どういうことだ?」

「人の食事が受け付けられなくなってね」

 袋のナッツを皿へ流し込みながらジュダが続けた。

「動物は平気なんだけど。口、使うのがさ。

 飲み込めるまで、唾液と混ぜながら噛むだろ。気持ち悪くなっちゃって。

 家族と小さな村に住んでいたんだけど、それが理由で出てきたんだ」

 カランカランとナッツが皿にぶつかるが、ジュダの焦点不明な瞳は微動だにしなかった。俯き気味だったからか、その顔がどこか寂しげに見えた。

「“想像”は思いつきの話でも大丈夫だし、読み聞かせてもらうのも好きだったんだけど。

 牛や豚は喜んで食うのに、犬猫は可哀想がるのも不気味で。

 俺、人間じゃなくなったんだなあって思ったよね」

 ジュダが傾けていた袋をいい加減に閉じる。器はナッツで満たされていた。

「じゃあ、好きに使って構わないから」

「どっか行くのか?」

「友だちが遊びに来るんだ。興味あったらおいで」

 ジュダはスープ皿を片手に出て行った。

(友だち……? つーか、俺と初対面だろ。警戒心どうなってんだ)

 魔がさす、なんてことはないが心配になる。

 窓から覗き込むと、ジュダと一頭のイノシシが戯れていた。正確には、餌を無心で食らうイノシシを、ジュダが勝手に撫でている。戯れているつもりなのはジュダだけかもしれない。

 イノシシは、下手をすると俺と同じくらいの体長があった。

 村で屠殺されていたものと、同じ種類だった。

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