霧がかった駅で、耳に打ち付けんばかりの汽笛が鳴らされた。

 山をくぐり抜ける汽車で、隣の街へ通じているこの駅。

 ダミーらしき人物がチケットを買っていたとの情報があった。

 俺は今回、同じルートを追いかける形の任務になる。

(検閲が始まる前に急いだようだが、仇になったな) 

 見送りにはサイファー、アリア、マスターまで来てくれた。

「わりいな、マスターなんて治ったばっかりなのに来てもらって」

「なあに。大した怪我じゃあない」

「いやいやいや。

 ……ん? どうした、アリア」

 白く小さな手が俺の服の裾をくい、と引っ張った。

「……メモリー、ありがとう」

 やや俯いていたが、駅に吹き荒ぶ風が真紅の髪を持ち上げた。

「こっちこそ、ありがとうな」

 ちらりと赤い瞳が俺を見上げる。はにかんだ少女は、パッと手を離して後ろで組んでしまった。

「アアアアリア私というものが有りながら……!

 メモリーもこんな短期間でアリアの信頼を勝ち得るなんて……!

 早く旅立つがいいよ若人!」

「おーおーもう行くぜ。なんか大人しいと思ったらこれだよ」

 素でショックを受けてるおっさんに背中を押され、俺は汽車に乗り込んだ。

 ちょうど出発の本鈴が鳴り響く。

 俺の背から手を離したサイファーが、汽笛に紛れて呟いた。

「どうしてこんなことをしているか、聞かないのかい」

 後ろのアリアたちには届かない程度の静かさで、紳士の容貌に見合った落ち着いた声。

 振り返ると、風に弄ばれる金髪の下で、緑の目が柔らかく弧を描いていた。

「胸焼けしそうだからやめておく。どうせ“愛”なんだろ」

「はっはっはっは。さすがだ。

 旅路に幸運を祈るよ、友人」

 

 □■□

 

 実は、俺は生まれて初めて汽車に乗る。

 路線バスとかは慣れているが、後ろへすっ飛んでいく森や、切り立った崖を走る線路は見慣れなかった。

「ママ! さっきワンちゃんがいたよ!」

「まあそうなの? 吠えもせずにお利口ね」

 ほのぼのした親子のいるラウンジ車両を後にし、指定された自分の席を探した。

(ここか)

 向かい合う二人がけの椅子と簡単な引き戸がついている、いわゆる個室席。

 機関の権限で貸し切りなのをいいことに、荷物を放ってどかっと座った。

 しばらくすると、崖沿いを走っていた汽車が森を抜けたらしく、窓からは水平線まで広がる海を見渡せた。

 だがその清々しい風景は長く続かなかった。

「…………げ」

 果てしない青の上に、子どもの落書きのような、真っ黒な分厚い雲が鎮座していた。

 

 □■□

 

「コクべ? 俺。

 汽車が暴風雨で進めなくなった。サイファーのとこから二つ先の駅で足止め食らってる。

 うん……うん。わかった。こっちは自分でやるから気にしないでくれ」

 ホームでは駅員が慌ただしく駆け回り、乗客は俺のように連絡を取ったり、レインコートを買ったりしていた。

 雨が降り出してもしばらく汽車は走っていたが、殴りつけるような豪雨と強風には、さすがに運転を見合わせた。

(さて、俺も宿を探さねえとな)

 汽車が動きだすまで待機の指示が出た。

 コクべは俺の替わりにこの街の先で追跡する人員を確保しなければならないので、こちらから早々に通信を切る。

 土地勘は全くない。まずは地図を探そう。駅なら掲示してあるだろ。

 だが、俺はふと足を止めた。

「……おい?」

 一人のじいさんがよろよろと、雨漏り注意と貼られたバケツに突っ込もうとしていた。

 バケツにはなみなみと水が入っていた上に、滑りやすくなった床でじいさんの足元は本当におぼつかない。

 俺はじいさんの腕をとっさに掴んだ。

「あんた、そっちはダメだぜ」

「……おや? ああこれはこれは。ありがとうございます」

 老人は俺の方を向いているが、しっかりと目が合うことはなかった。

「もしかしてあんま見えねえのか?」

「…………年には敵わなくってねえ。

 お恥ずかしながら、十七番出口はどちらでしょう? 今日は雨音がうるさくて」

「十七? ちょっと待て……あー、そっちのスロープを降りたところだ。連れてくよ」

「観光の方でしたか。申し訳ない」

「まあ、そんなもんだ。

 ……あんた、ここからどうするつもりだ」

 老人を出口まで案内したはいいが、滝の裏側のような、一歩先の視界をも遮る雨がドバドバ降り注いでいた。

「旅のお方、もう宿はお決まりで?」

「いや。これからだけど……これ駅で野宿した方がマシかもしれねえ」

「それならうちへどうでしょう。こんな老いぼれにも親切な方だ。歓迎しますよ」

「気持ちはありがてえけど……そもそもここからどうやって?」

 ご隠居がすっと指差した先には、ひっそりと佇む通路があった。

 

 □■□

 

 抜け道じみた通路は見事に雨風を凌ぎ、俺たちはほとんど濡れずにじいさんの家へ辿り着いた。雨水に晒されたのは、老人の家をノックをしてから扉が開く少しの間だけ。それでもそこそこ濡れてしまったが。

 迎え入れられたそこはログハウスのような温かみと、こじんまりした居心地の良さがあった。

「メモリーさん、こっちのタオルを使って」

 茶髪にそばかすが目立つ女の子が、真っ白で新しいタオルを差し出してくれた。俺と同じくらいの年齢だろうか、親近感というか、既視感がある。誰かに似ていた。

「ああ、どうも……えーと」

「カロライナよ。おじいちゃんを助けてくれてありがとう。ちょっとボケてきちゃってるの」

 そう言うと、カロライナはじいさんがさっき俺へ宛てがったタオルを回収した。当のじいさんは自室で着替えている。

 タオルはたしかに古ぼけていて、ロビンと刺繍されたアールのあたりから糸がほつれていた。

「二人で暮らしているのか?」

「ううん。四人。おばあちゃんと兄よ」

 カロライナは俺の上着をハンガーにかけ、荷物をロビンのタオルで拭いてくれた。

「そうだったのか」

「まあね。ただ身体が弱いから、挨拶に降りて来れないの。ごめんなさいね」

「……じいさんまだ奥だよな? これ、助かったよ」

 水気を含んだタオルを気持ち畳んでカロライナに返した。

 首を傾げる彼女に続ける。

「大変だろ。駅から接続されてるホテルでも探すよ」

 そんな雰囲気は見せないが、病弱な兄と祖父母と暮らしていたら彼女の負担は想像に易い。

「危ないわよ。通路を通るとはいえ、もうすぐ雷が来るわ」

「へ?」

 窓が光った刹那、爆発でもあったのかと思う轟音が、鼓膜だけでなく腹までも震わせた。

 口をあんぐり開けた俺に、カロライナがいたずらっ子のように笑った。

「ね?」

「すげえな。天気予報士かよ」

「ふふん。目がいいの。兄さんも雷雲と雨雲が見分けられるのよ。

 気を使ってくれるにしても、嵐が過ぎてからの方がいいわ。それに、危険な発症者がこの街に来ているかもしれないんですって」

「……なんだと?」

 俺の反応を勘違いしたカロライナが言った。

「どうしても嫌なら止めないわ。発症者がダメな人もいるから。

 ——兄さんは無害認定されてる発症者なの。病弱なのもあるけど、とっても優しいのよ。

 兄さんがいる駅のこちら側に、いきなり有害発症者が来る可能性は低いって聞いたわ。発症者同士はなかなか決着がつかないからって。

 兄さんの様子がバレるまで、でしょうけど」

 彼女に困った顔をさせてしまったその時、先に奥へ入っていたじいさんが戻ってきた。

「カロライナ、お客をいつまでも立たせてはいけないよ」

「……」

 俺は二人に認定証を開いて見せた。

「メモリーという。俺も発症者だ。記憶喰いだが訳あって食事が不要になっている。人間から何かを奪うことはない。

 ご迷惑でなければ、一夜の宿を恵んでほしい」

 

 □■□

 

 俺はシャワーを借りた後、ダイニングに招き入れられ席についた。

 カロライナしかいなかったが、温かい紅茶を淹れてくれた。

「いつもはここから海が見えるのよ。ちょうど飛行士試験の会場になっているところ。今日から試験だったの」

 彼女が指差した外は真夜中のように暗く、横殴りの雨と風が窓をガタガタと鳴らしていた。

「さすがに中止だろ」

「ええ。友達はかわいそうだった。延期の処置はされるはずだけれど。

 私の番は明日だから、どうにか晴れてほしいわ」

 返事が遅れた俺に、カロライナは自分の紅茶も淹れながら得意げに笑った。

「驚いた? こう見えても飛行士の卵なのよ」

「……飛行士に茶目っ気を持ち合わせてる奴は少ないからな」

 俺のギリギリの回答に気を良くしたのか、彼女はカップの取っ手を指で往復しながら続けた。

「ふふ。男ばっかりだものね。飛行士学校には兄さんが先に通っていたのよ」

 自慢の兄なのだろう。カロライナの声は弾んでいた。

「でも発症から少しして病気にもなって……」

 彼女の目は窓を、何かを思い出すように遠くを見つめていた。ややあって、切り替えるように口元をきゅっと引き上げる。

「試験が終わったらね、合格者で飛んで飛行機雲を作るの。

 ここから兄さんに見せてあげたい」

「……その目があれば大丈夫だろ。雲が読める飛行士なんて百人力さ」

 励まされるとは思わなかったのか、カロライナはきょとんとした後、ずいぶん楽しそうに笑った。

「そうね。ありがとう」

 心地の良い沈黙が暫し流れる。

 それを打ち破るように突如、物がひっくり返った、つんざく系統の音が鳴り響いた。

「二階からだわ!」

 ダイニングを飛び出す彼女に続いた。プライベートに首を突っ込むのは気が引けるが、ただごとではない音量だった。

 二階では、ばあさんがうずくまり、まわりには写真立てなどが散乱していた。

「どうしたの!?」

「カロライナ……ごめんよ、転んでしまっただけなの」

 ばあさんは部屋から出ようとして段差に躓いたようだった。

 派手に散らかってしまったが、幸い割れ物はなかったらしい。

 俺の足元にまで飛んでいた写真立てを拾う。

 そこにはじいさんとばあさん、カロライナ、そしてペールグリーンの髪の男が写っていた。晴れた日の庭を背景にした写真では、家族揃って笑顔だった。

 カロライナが、ばあさんの出てきた部屋の中に声をかけて入った。

「兄さんは大丈夫?」

 俺も写真を片手に部屋へ近づく。とりあえずばあさんに手を貸した。

 開けっ放しのドアの向こうにはベッドがあり、ペールグリーンの髪の男が寝ていた。写真と違い、遠目にも痩せ細っていた。

「大丈夫だが……カロライナ……触るな……」

 ぼそぼそと独り言のような声だが、やけにハッキリと聞こえた。

「……! ごっ、ごめんね! 調子悪いのに!

 あ、メモリーさん! 私がかわるわ! おばあちゃんも歩ける? 一階に行こうか」

 部屋から出てきたカロライナにばあさんを引き継ぐ。

 声こそ明るいが、横顔はどう見ても繕ったものだった。

 二人を挟み、寝込んでいる男と俺の目が合った。

「君は……?」

「挨拶が遅れて申し訳ない。

 記憶喰いの発症者、メモリーという。訳あって食事不要なんだが、今夜の嵐をしのがせてもらう」

「発症者……」

 寝込んでいる男は呟いた後、少し間を置いて続けた。

「カロライナ……メモリーさんと二人にしてくれる……?」

「えっ? わ、わかった。行こう、おばあちゃん」

 カロライナはばあさんと階段を降りた。気のせいか、背中が少し寂しそうだった。

 入れ替わりで俺は部屋に入る。

「どうぞ、座って……感染る病ではないから安心して。

 写真はその辺でいいよ」

 男に言われ、俺は静かに扉を閉めた。写真立ても近くの棚の上に置いた。

 招かれたそこは物が少なく、あまり青年らしさのない部屋だった。強いて言うなら、写真立てを置いた棚に飛行機絡みの書物がぎっしり入っていたことだろうか。

 ばあさんが看病で使っていたであろうチェアを借りる。

「カロライナの兄、ロビンです。

 記憶喰いと言ったね……頼みがあるんだ」

「初対面の俺に?」

「ああ……。

 見ての通り……僕はもう永くない。いずれ死亡報告が機関に上がるだろう。そうしたら……。

 家族から記憶を、僕に関する記憶を…………食らってほしい」

 

 □■□

 

 ロビンの部屋から出て、俺の足取りは重かった。

 無茶な願いであることは、ロビン本人がよくわかっているのだろう。君さえ良ければ、などと後から付け加えられ、その話は一旦保留となった。

(どうすっかな……)

 いやに喉が乾いた気がした。

 別に飲む必要は全く無いが、なんとなくダイニングへ戻ると、カロライナが湯気の上がらないカップと一緒にテーブルにいた。

 放っておく気も起きず、俺も黙って彼女の向かいの席に座る。

 お互いに顔は明後日の方だった。

 カロライナは紅茶の水面に目を落としたまま、小さく言った。

「兄さんは優しいから言わないのかもしれないけど……私が飛行士になるの、本当は嫌なのかもしれない」

「お前はなりたいのか?」

「……うん」

「だったらなれよ。あの人もそんなこと思う感じじゃねえだろ」

 カロライナがカップから顔を上げる。そしてまた自信なさ気に視線を落とした。

「……でも病気になってから触るのをすごく嫌がるの」

 たしかに、温厚な彼からは想像し難い、やけに強い拒絶だった。

「皮膚の病気とかか?」

「ううん。詳しくはわからないけれど感染しないし、話もしてくれるのに」

「……嫌ってる以外の理由があるんだろ。触ると痛む時もあるぜ」

 

 □■□

 

 一夜明け、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。

 カロライナは早朝から試験だった。時間が早過ぎるから、と家族を起こすことを遠慮した。

 そんな彼女を見送るのは俺だけだった。

 飛行士の制服を着たカロライナが鞄を持ち上げる。制服はツナギになっており、一見すると男装のような凛々しさだった。

「それじゃあね」

「ああ、世話になった。がんばれよ」

「ん……ありがとう。昨日も励ましてくれて。

 合格してくるわ! 空、見ててね!」

 彼女は頼もしくも無邪気な——失礼だがどこかガキ大将のような笑顔だった。

 カロライナを送った玄関の扉が閉まる。

 俺も出発の支度を始めよう。そう思っていたが、ふと足を止めた。

(帰ってくるまで居ろってことか?

 ……もう出るつもりだったんだが。しかも客間からは会場は見えねえ。まあ早く準備してダイニングに行けばいいか)

 そんなことを考えながら階段を登ると、ロビンの部屋からじいさんが出てきた。

「おはようございます」

「だ……誰だい!?」

 俺が声をかけると、じいさんは文字通り飛び上がってしまった。

「メモリーです。驚かせてすみません」

「あ、ああ。大丈夫だよ。よく見えなくてね。おはよう。

 ロビン、メモリーくんだよ」

「おはよう、ロビン。カロライナはさっき出たぜ」

 俺がドアから顔だけのぞかせると、薄暗い部屋のベッドからロビンがゆるく微笑んだ。

「私たちも朝食にしようか、メモリーくん」

「あ、はい」

 じいさんが扉を閉める。

 それに続いて、あまり摂る必要のない朝食のためにダイニングへ向かった。

 

 □■□

 

 じいさんと話すだけの朝食の後、俺はずかずかロビンの部屋に踏み込んでカーテンを開けた。

「邪魔するぜ」

 陽光がさんさんと差し込み、窓の外には空と海が繋がったかのような青が広がる。俺ですらカロライナの姿がわかるのでは、と思うほど本当によく試験会場が見えた。

「晴れたな。まだカロライナ飛んでねえよな」

「ふふ、間に合ったよ……ありがとう……よかった……試験日和だ……」

 ペールグリーンの髪がきらきら光を返す。教科書に載る慈愛のなんとか像のように、ロビンは穏やかな顔をしていた。

 とても妹を拒絶していたとは思えなかった。

「……なあ、触るのはなんでダメなんだ? 結構気にしてたぞ」

「絶対に駄目だ」

 普段が虫の息なだけに、俺は語気の強さで身を強張らせた。

 ハッとしたロビンが眉を下げて続ける。

「ごめん……急に……」

「ど、どうしてだ?」

「…………あの子の目を曇らせたくない。唯一僕と似ているところなんだ」

 その言葉に引っかかりが生じた。

「もしかしてお前、食餌は目なのか?」

 俺の問いに、ロビンは諦めたように呟いた。

「正確には視力だ……祖父母は僕のせいで……」

 年齢を重ねれば目は悪くなるが、言われてみれば彼らは極端な視力の落ち方だ。じいさんも、昨日までは見えていた俺の姿がわからなくなっていた。

 嫌な予感がした。

「……お前、いつから食事していない」

「光を失う恐怖は……誰にも味わせたくないんだ……友人から摂ってしまって以来、祖父母からも摂っていないつもりだけど……。

 もう、コントロールがきかないんだ……」

 いつから、という質問に対しては見当違いに聞こえるが、それが答えだった。

「まさか病気っていうのも……それじゃあ餓死するぞ!」

「構わない」

 息が抜けるような声だが、絶対に折るつもりのない意志がこめられていた。

 ロビンが続けた。

「君には……嫌な役回りをさせてしまうけれど……。

 僕の死に方は……僕が決める……」

 その時、馴染みのない機械音が窓の外から聞こえた。

 振り返ると、快晴の青に白いラインが五本並んでいた。

 ロビンはほっとしたような、息の抜けるような声だった。

「……カロライナだ」

 ああ、よかった。

 ロビンが本当にそう言ったのか定かではない。

 そしてもう、確かめる術はなくなってしまった。

 

 □■□

 

 二度と目を覚まさなくなったロビンのベッドに、カロライナが突っ伏していた。

 嗚咽も零さず静かな彼女は、ガリガリに痩せた冷たい手を握り締めていた。

「……ロビン、飛行機雲見てたぞ。カロライナだって言ってた」

 カロライナの肩が少し動いた気がした。

 

 ——家族から記憶を、僕に関する記憶を…………食らってほしい。

 

 ロビンの遺言が頭の中で反響する。

 俺はカロライナの肩に触れようとして、手を止めた。

(間違いなくロビンはそう言っていた。だがこの違和感はなんだ?

 本当に記憶を消していいのか? ロビン)

 “置いていく側”はやったことがある。だからどんな気持ちで——決意でいたかはわかる。

 ただ俺の中で、どこかに迷いがあった。

「兄さん、他に何か言っていたの?」

 呆然としているように見られたのか、カロライナが顔を上げていた。目は真っ赤になって、もう腫れている。

 すぐに返せなかったせいで、彼女に確信されたらしい。隠さずに話せという威圧感すら出ていた。

 圧倒された俺はバカ正直にそのまま口走ってしまった。

「……寿命を悟っていたらしい。家族から自分の記憶を消せと」

 自分に実行するつもりがないことに気づくが、遅かった。

 カロライナが目をみるみる釣り上げる。

「消さないで! 絶対に消さないで!」

 明らかに気押された俺を見て、彼女は我に返った。

 そして、兄がどんなつもりでそう遺したか、想像がついたのだろう。ロビンの手に額をつけると、震える声で、だが誓いを立てるように凛と言った。

「忘れるくらいなら、いくらでも泣くわ」

 まるでロビンへ答えているようだった。

 

 □■□

 

 その後、俺は葬儀の手伝いを少ししてから早々にあの家を発った。冠婚葬祭に部外者が居座るのも疑問だったし。花だけ手向けておいた。

 機関経由のチケットで取った汽車の個室に、どかっと腰を下ろす。

 動き出した窓の外には見渡す限りの海が広がっていた。

(……あいつか)

 忙しいのに笑顔で送り出してくれたカロライナ。

 ずっと、誰かに似ていると思っていた。

 

 ——こんなところにいたのね! 一日中そんなんじゃ植物になっちゃうわよ!?

 

 メリー。

 俺も、お前を泣かせたくなかったんだよ。

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