メモリーが帰った話


 ジュダに案内してもらい、ようやく街へ出た。
 礼に本でも買おうとしたが遠慮され、さらに場所がカフェの前だったことが災いし、逃走のような別れを告げられたのが数分前のこと。
 取り残された俺はというと、久しぶりに電波を掴んだ端末で、本部へ連絡を入れていた。コール音を聞きながら。ぼんやりと応答を待つ。
(そんなに嫌なのか)
 テラス席でカップルがパンケーキを頬張っていた。
 女性の方が苺を口へ運ぶ。真っ赤な唇が開き、同じ色の果実を封じ込んだ。白い歯に果汁を散らしながら、あの中では苺がぐちゃぐちゃになっているのだろう。
 女性が二口目をフォークで運ぶ。別段下品でもなく、食べカスが見えたわけでもない。
 だが再び開かれた口に、飲み下して何事もなかったかのような歯の白さに、肌が粟立った。
『メモリー!? 無事だったのか!?』
「っ! あ、コクベ?」
 その時、耳へ飛び込んできた声に意識が引き戻された。
 珍しく大声のコクベに、どうしていただの、どこに居ただのと、説教混じりの尋問、もとい状況確認をされる。結構な日数迷っていたらしい。
「ジュダって発症者が案内してくれた。森の奥に住んでいて認定証の話すら知らなかったやつだったけど」
『なんだと!?』
 心配をかけておいて難だが、その声のテンションがおかしく素っ頓狂にも聞こえる。笑いを堪える間も無くコクベが続けた。
『メモリー、彼からは他に何もなかったのか?』
「え? いや、別に」
『彼の本名はシャングリラ——お前の叔父だ』
「……は!?」
 思わずジュダが走り去った方を勢いよく振り返る。当然、長い黒髪が見当たるわけもなく、一般人が行き交うだけだった。
『追いかけるなよ。
 何度か機関もコンタクトを取ろうとしたが、使者がもれなく樹海で遭難してる』
「しねえよ。ていうかまさか、俺のこと知ってて……?」
『数回しか会ったことはないが、それはないだろう。凄まじい偶然だな』
(たった数回でそんな判断されんのか)
『食餌も有害とは言えないし、放置で話がまとまってる。会いに行きたければ身辺整理してからにしろよ』
「行かねえよ」
『あと、お前宛てに妙な手紙が来ている』
 コクベが続けた。
『読むぞ。
 “親愛なるメモリーへ。
 君の故郷はいいところだね”
 妙な点は、差出人がメモリー。お前の名前になっているんだ。
 お前からの暗号かと思ったんだが……』
「俺じゃねえよ。なんだそれ」
 わざわざ俺へ手紙を出すような奴で、温厚な文面。該当するのはドクトルやサイファーだが、差出人の名を間違えるとは考えにくい。
 さらに今頃になって気がついたが、コクベの後ろでドクトルの叫び声が聞こえていた。「心配してたんだよー! メモリー!」という咽び泣きを、さっきまでノイズだと思っていた。わりい。
(手紙送ってくる奴なんて……)
 誰かいたか、となんとなく空を見上げる。光を反射する雲が眩しいこともあって、眉間に皺が寄った。

 ——君となかなかデートができないなあ、メモリー。

「……!」
 脳内で点と点が火花を散らして溶接される。
 わざと“わかるように”差出人を俺の名前にしやがったな。
「コクベ。あいつだ——変装野郎だ!」

 □■□

 二度と来ることはないと思っていた。六年ぶりの故郷は、何も変わっていなかった。
 こんな辺鄙な村へ、真っ黒なスーツに政府公認のバッヂと、瞳の見えないゴーグルをつけた役人——通称“黒服”が一人でも来ていたら大騒ぎだ。
 村役場のまわりには、隠れる気もない人集りができていた。
 コの字型のテーブルには俺、向かいには村長が、残りの一辺には書記や副村長が強張った面持ちで座っていた。そして腕っぷしに自信のある男衆が牽制で、村長の後ろに立っていた。
「機関から派遣された、メモリーという。
 今回、危険指定の発症者がこちらへ現れるとの情報があったため、調査でしばらく滞在する。
 俺も発症者だが、訳あって食事は不要になっているので安心してほしい」
 そうは言ったがダメで元々だ。安心など、ここの住人がするわけない。誰が面倒を見るんだ、とかヒソヒソと話す声よりも、汚物を見るような目と一歩置いた距離が物語っていた。
 静かにならない中、連絡事項を伝え、質問などあるはずもないので席を立つ。
 凛とした一言が、その囁きたちを黙らせた。
「機関の方、宿までご案内します」
 俺と同じ歳の彼女は、相変わらず長い茶髪を二つに分けて編んでいた。成人の儀が済むと着ることのできる薄茶のワンピースで、村の女衆がよく使うエプロンは一応外している。気の強い目は健在で、俺より低いが背も伸びた。
 彼女に背中を軽く押され、一緒に役場を出た。
「参りましょう。
 私はメリー。なんだか似てる名前ね」
「……ああ」
 二人で、俺も知ってる道を歩いた。
「メモリーさん、さっきはごめんなさい。みんな、悪い人じゃないんだけど臆病で」
「別に気にしてない。お……あんたは、肝が座ってんな」
「だってあなた、全然怖くないわ」
 彼女がケラケラと笑い声をあげる。六年前となんら変わっていなかった。
「……旦那は尻に敷かれてそうだな」
 俺は上手く笑えただろうか。
 メリーの左手に光る指輪だけが、その答えを知っていた。

 □■□

『とは言ったものの、特に動きがないんだ?』
 端末からはドクトルのゆるい声が飛んできていた。
「ああ。別に誰も死んでない。麓の街で食餌は済ませてる可能性もある。
結構でかいから喰われてても人数に上がんねえかも。
 出口も張ってんだけどな……」
 宿で資料を広げ、俺もベッドに四肢を投げ出していた。
『わ、麓の街大きいね。探すなら村の方が早いかもよ』
「ああ。にしても、静か過ぎて気味が悪いぜ。誰に化けてくるかもわからねえし」
 何かを言いかけたドクトルの後ろで、ナースが医師を探す声がした。
「お呼びだぜ先生」
『あらら、行ってくるね。
 無理はしないでよ、メモリー』
 それを最後に通信が終了した。
 しんとする部屋で天井を眺める。
(暇さえあれば連絡してくるよな……。母親か)
 その時、突然部屋のベルが鳴った。
 呼び鈴なのだから前兆があるわけがないが、俺はすっかり油断していた。ベッドから慌てて飛び起きる。
 資料を隅にまとめ急いで扉を開けると、メリーがいた。
「メモリーさん、少しいいかしら」
 ちょこんと首を傾げ、片手は胸の前でゆるく握られている。後ろに隠されたもう片方の手は、緊張でスカートを強く握っているのだろう。彼女の癖だった。
 俺はできるだけ穏やかで優しい顔をするよう努めた。努力はした。
「どうした?」
「あの、よかったら夕食はうちに来ない? 発症者って食べ物はダメだったかしら」
 努力むなしく、俺は真顔になっていたかもしれない。いや多分なっていた。
 我にかえるも俺は狼狽していた。
「嗜好品で食えるが……それ以前に家族が怖がるだろ」
「平気よ。
 母と、そのお友達も身体を悪くしたから一緒に住んでいるんだけれど、皆で話したの。
 主人は仕事で昨晩から母屋に泊まりだけども、聞いたら構わないって」
 この村で母屋と言えば、崖にある木造の小屋を指す。
 群生する毒草の根を蒸して乾燥させたものが、薬草として特産品になっており、小屋はその作業場だ。
 メリーが続けた。
「だから、メモリーさんさえよければ」
 彼女からわずかにスパイスの匂いが薫った。客人用のスープに使う香草のものだ。
(……客人か)
 その時、ジュダの言葉がよみがえる。

 ——口、使うのがさ。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 どうしたいのかは、俺にもわからなくなっていた。

 □■□

(全然大丈夫だったな)
 日はとうに暮れ、風が少し涼しい。
 夕飯をメリーたちと一緒に過ごし、帰りは見送りだけ受けて宿へ歩いていた。
(つーか、食え食え言い過ぎだろ。ガキじゃあるまいし、そもそも発症者だぞ)
 肉をつけろと寄ってたかって皿に盛られ、口など見ている暇はなかった。考えてみれば六年前まで散々見慣れた光景だ。そう自分を納得させる。
(母さん、一人じゃないのか)
 身体を悪くしたのは、俺の母親だった。少し痩せたが面影は変わらず、笑い皺が刻まれていた。数年前に主人を亡くしてね、なんて話もそこそこに率先して食わしてきたのもあの人だった。
「…………ふー」
 ため息ほど憂鬱ではないが一つ吐き出すと、自分の口角はゆるく上を向く。
 左側に、六年前に住んでいた家が灯りもなく佇んでいた。
 足を止めて、ぼんやり眺める。
「ん……?」
 発症者でも昼間では聞き逃しかねない、僅かな音がした。
(どこか開いているのか?)
 キィキィと蝶番が軋んでいる。
 たしか裏口の立て付けが悪かった。俺はよく知る門を抜け、脇から庭へ出た。
 扉の取っ手には紐が括り付けられ、芝生へ転がされた小さな機械へ繋がっている。機械は電池式なのか、中で歯車が回っていた。
 つまり、人間に聞こえない程度の音を出すため、扉を微かに揺らすためのものだった。
(……あいつか)
 悪くない気分だったのにな。人の実家に何の用なんだ。
 今度こそため息をついて、端末を取り出した。
「コクベ、俺。ダミーを発見したかも。俺の実家。とりあえず中に行く」
 一方的に報告出来るモードの通信を送り、土足で裏口をくぐった。
 耳を澄まして呼吸音を探す。
(……二階か)
 俺に気づいているのか、息を殺しているような小ささだった。
 階段が登るとギシギシうるさいので警報代わりになると思ったのだろう。
(吹き抜けへ飛べば済む話だ)
 俺は足音を立てずに二階の廊下へ降り立った。
(妙だな)
 奇襲をかけて来そうなものだが、さっきから呼吸は同じ場所にある。
 そして不規則だった。
(本当にあいつか?演じているのか?)
 罠に注意しながら歩をすすめ、そっと寝室のドアを開けた。大きな家具は置きっ放しで埃をかぶっている。一見誰もいないようだが、気配がベッドの向こうにある。そこで俺は確信した。
 ダミーじゃねえ。
「……誰だ!」
 バッと駆けた先、煤けた茶髪の男が倒れていた。そいつは両手足を縛られ、口を塞ぐように布が巻かれている。間の長い呼吸を辛うじて繰り返していた。
「おい! 大丈夫か!」
 生気のない男を揺するが当然のように目は開かれない。
 俺が知る限り、六年前には村にいなかった奴だ。一瞬、ダミーが化けている可能性が脳裏をよぎる。
(発症者かどうか……気が乗らねえけど)
 男の肩に右手を置く。
 目は閉じずに“意識の目”を閉じた。
 少しずつ捻られた蛇口のように、彼の記憶が流れ込んで来る。
(人間だ)
 何もしなければ直近の感情を遡ることになる。
 一番に入って来たのは“心配”だった。
(…………メリーの旦那だったのか)
 心配はずっと流れ、それに加えて飢え、恐怖、孤独が順に顔を出す。しばらく同じ、置き去りにされた部屋の記憶が続いた。
 やがてドアから手を降る、倒れている彼にそっくりな男が現れた。笑っているにも関わらず刺すような瞳には、よく覚えがあった。
「チッ!」
 縄や口布を解き、旦那を抱えて部屋を飛び出した。細工をされた裏口を蹴飛ばし、さっき歩いた道を突っ走る。目的地へはすぐに着いた。
 ノックもせずに——昔からお互いしたことなかった家へ駆け込んだ。
「メリー! 医者呼んでくれ!」
「えっ、メモリーさん!? どうしたの……!?」
 目を見開いた彼女は、旦那の姿を認めた瞬間、聞いたことのない悲鳴をあげた。
「息はあるが急いでくれ。
 おばさんは、みんなに母屋へ近づかないように伝えてくれ。発症者がこの人に化けて隠れている可能性が高い」
 ソファへ旦那を寝かせながら手短かに伝える。
 メリーはその間、何も言わず彼に寄り添っていた。冷静に見えるが程遠く、彼の手を固く握り締め、真珠かと見紛う涙を零していた。
 俺はできるだけ声を押し殺した。
「……んの野郎」

 □■□

 メモリーも完全に冷静だったとは言い難かった。
 弾丸のようにメリー宅を飛び出た彼は、彼女が自分を見上げていたことに気づかなかった。
 メリーの中では、旦那を案ずる感情がもちろん大半だったが、妙な既視感も生まれていた。既視感というには何も思い出せず、ぼんやりしたものだが、彼女の中にはなぜか確信があった。
(追いかけなきゃ)
 思い出せない誰かの横顔が、初めて会ったはずの客人と重なっていた。

 □■□

 真っ赤な花畑が崖を覆っていた。
 綺麗なのは見た目だけで、実際に生い茂っているのは毒草。真下は激流が岩肌を削っている場所だ。
 母屋と呼ばれる床の高い木造平屋が、赤に囲まれるように建っていた。わざわざ高く造られた床に、蒸された根っこがいくつも吊るされている。
 まるで生来その職人であったかのように、そいつはいた。
「やあ。思ったより遅かったね」
 作業用の腰から下しかないエプロンをした茶髪の優男——に成りすましたダミーが、ヘラヘラ笑って続けた。
「無事でよかった。心配したんだよ、メモリー」
「……どういうつもりだ」
「こうすればまた会えるだろう? 君が生きている限り」
 ダミーはエプロンを外して適当な柵へ引っ掛けた。ついでに手を拭う。
「そんなに睨まないで。前も言ったけど好奇心さ」
「前?」
 俺が眉を顰めるのはともかく、当の本人まで首を傾げた。
「……こっちの話だった。
 要するに、君のことが知りたいって話だよ」
「機関で拘束具つけてだったら考えてやる」
「厳しいなあ。“食餌要らずのメモリー”」
 せっかくこいつを捕まえるために色々と用意してきたのに、メリーのところへ行った帰りだったので丸腰だ。
 だが今の俺には関係がなかった。スープを食った後の腹ん中が沸騰しそうだった。
 俺は突っ込んで行き全く軽くないジャブを畳み掛ける。
 だがダミーはひらひらフラフラと躱しながら続けた。
「生きていく上で、何が一番大事?」
 花畑まで後退したダミーの足が、赤を数本踏みつけた。
 母屋の職人に化けていたなら知っているはずだが、ここの花には毒がある。折れた拍子に飛び出た液体も例外ではない。
 それが乾く前に、俺は砂ごと蹴り上げた。
 俺は顔を避けたが、さもなければダミーのように片目が火傷になっていただろう。
 その隙をついて胸ぐらを掴み、奴の頭が花畑を囲う煉瓦にぶつかるよう、地面へ叩きつけた。
 自分でも驚くほど低い声が出た。
「うるせえんだよ、嫌がらせ野郎」
 その時、視界の端に赤が浮く。
 ダミーが、信じられねえが素手で花を手折り、その断面を俺に振りかざしていた。
 だがその挙動こそ“ダミー”だった。
「ぐっ!」
 ぎょっとした俺の腹に、モロに蹴りが入る。今度は俺が花畑の中に吹っ飛ばされた。
 一応、毒草に助けられたことになる。崖には柵なんて気の利いたものはなかった。
 ダミーは片目の火傷や、歩くものを崖へ転がさんとする傾斜を気にも留めず、花畑に踏み入ってきた。ゆっくり踏みしめる奴の足元で、赤い花が舞台セットのようだった。
「命あるものの最優先事項は餌。食べることだ。僕だってそう。
 でも君は違う。
 君は何のために生きているの? まさかあの村人たちのため?」
 笑っていたダミーの顔から表情が消える。
「だとしたら興醒めだ」
 焼けただれたにも関わらず、その目は鋭かった。むしろどこかイラついているような冷たさもあった。
 俺もダミー相手にいつまでも寝転がっているわけもなく、身を起こして膝立ちで構える。正直、腹がじくじく痛んでいた。
 ダミーが作業着のポケットから小さめの刃物を出す。
「君を忘れた人間に、君を知らない人間に価値があるのか」
 俺の喉に、突然吐き気が駆け上げる。蹴飛ばされたからではない。ぎくりとした、嫌な動悸が早鐘を打っていた。
 ダミーは花を蹴散らしながら間合いを詰めてきた。考えなしに突っ込むようなスピードで、次を読ませない最小限の動き。
 今まで手加減されていたのだとよくわかった。それは間違いなく、俺を殺すための動作だった。
「クッソ……!」
 辛うじて飛び退くが、それすらも計算に入れられていた。
 ダミーの火傷はもう治っていた。そしてナイフを持った腕が、すでに避けた先へ伸ばされている。だがそれはフェイントで、本命は足払いだ。
 さらに、徐々に崖へ追い詰められている。おそらくダミーは、自分も落ちるリスクは承知の上なのだろう。
(うるせえんだよ!)
 動揺したまま勝てる相手ではなかった。
 だが嫌なものは嫌。失くしたくないものは、失くしたくない。
(価値とかそういう話じゃねえ……! 俺は、俺は……!)
 ダミーの問いに答えられない自分がいた。
 こんなにも足掻いているのに、全部無駄かもしれないと頭の隅で誰かが囁く。
 その声とナイフをを必死で振り払う。
 刃物はどうにか掠らず済んでいるが、代償に打撃は食らっていた。持久戦に持ち込まれ、俺は明らかに消耗していた。
 足元では、俺たち二人のせいで、真っ赤な花がぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた。

 ——こんなところにいたのね! 一日中そんなんじゃ植物になっちゃうわよ!?
 ——よく、家族を守ったな
 ——“想像”は思いつきの話でも大丈夫だし、読み聞かせてもらうのも好きだったんだけどさ。

 メリーやコクべ、ジュダの言葉が頭の中に溢れかえる。
 走馬灯なんて縁起悪ィ。内心そう舌打ちした。

 ——君を忘れた人間に、君を知らない人間に価値があるのか。

 挙句、目の前にいるダミーの声まで再生された。
 だがそれをかき消すように、もう一つ言葉が浮かび上がった。

 ——君がそうしたいと思ったのなら、人間を守っていいのだ。守り抜いていいのだよ。

 愛を貫けと言った男がいた。信念を持てと。
 たしかに俺は食わなくても生きていける。だけど、一人じゃ生きてなんていけなかった。
 発症がわかった日、みんなの記憶を喰って一人になった。
 死にそうだった。
 でも、コクべが俺に稽古をつけ、ドクトルが勉強を教えてくれた。サイファーは発症に関係なく俺やアリアと向き合ってくれた。カロライナだって俺を怖がったりしなかった。
 俺は今まで一人でいた日なんていなかった。

 ——口、使うのがさ。
 飲み込めるまで、唾液と混ぜながら噛むだろ。気持ち悪くなっちゃって。
 家族と小さな村に住んでいたんだけど、それが理由で出てきたんだ。

 ジュダの、シャングリラの言っていた意味がようやくわかった。なんで寂しそうに見えたのかも。
(あいつは誰のことも嫌いになりたくないから、村を出たんだ)
 視界が晴れ、頭がはっきりする。俺はカウンターでダミーに蹴りを入れた。
「俺は、記憶で生きていける。思い出せば……生きていける」
 ダミーは、蹴られたあとすぐに体勢を整えた。だがぼそりと、物語の冒頭のように呟いた俺の声に、動きを止めた。
 俺はダミーを真っ直ぐ見た。
「最優先事項は何だっつったな」
 いつの間にか俺たちは崖の際で戦っていたらしい。
 渓流が谷間から低い音を轟かせていたが、俺の中は凪いでいた。
 黙ったままのダミーに続ける。
「身体は死なねえ。
 けど誰かと関わらなきゃ……心が死ぬ。
 だから、会うために生きようとするんだ——他の命を奪ってでも。
 お前が執着するように、俺にだって、何してでも守りたい人たちがいる。
 また会って、心を生かすために」
 ダミーは動かない。それどころか唖然として目を見開いていた。
 俺はまた一歩前へ出て言った。
「お前だって悪くない。生きているだけだ。
 けど、ごめん。
 食われたくない奴がいっぱいいる。なくしたくない人がいる。
 ここは俺の——」
 その時、腹を押すような浮遊感が襲いかかってきた。
 暴れ回る俺たちに耐えかね、突如崖が崩れたのだった。
 ダミーではない、小さい手に腕を引っ張られる。
「メモリーさん!」
 どこから出ているのか、金切り声が百人分集まったような悲鳴だった。駆けつけたメリーの、火事場の馬鹿力で身体が傾く。
 全体重をかけたメリーが尻餅をついた時、俺は崖っぷちに座っているような、膝下が宙に浮いた状態になっていた。
 そして、ダミーの姿はなくなっていた。
 泥だらけの靴の向こうで、全てを押し流そうとする轟音が暗い谷間に響いていた。
 また崩れたりする前に、俺はどうにか淵から後ずさる。立つ気力もないので座ったままだ。
 二人分の荒い息が、静かな花畑に木霊していた。
(いくら発症者でもあの激流じゃ…………)
 メリーは先ほどの勇敢さの反動か、呆然と俺の腕を掴んだままだった。
 情けないが俺にも余裕はなく、とにかく彼女を内陸へ押しやった。
「なんでここにいるんだ! お前まで落ちたらどうするんだよ!」
「ご、ごめんなさい」
 俺を繋ぎとめた手が震えていることに、今更気付いた。
「……いや。俺も言い過ぎた。助かったよ。花には触っていないな?」
 冷え切ってしまった彼女の手を、覆うように取る。
「戻ろう、メリー」

 □■□

 有害認定の発症者は渓谷の激流にのみこまれた。
 そう報せを受けた村は、どこか安穏とした空気が漂っていた。
 ダミーの騒動から一夜明け、用の無くなった俺は早々に機関へ戻ることとなった。
 出発前、宿の受付前にある簡素なベンチで靴紐を結んでいると、隣に誰かが座った。
「旦那のところにいなくていいのか?」
 かつて俺を散々ままごとに付き合わせた彼女がいた。
「すぐ戻るわ。極端な栄養失調で油断はできないけど、峠は越えたって」
「そうか」
 メリーの言葉に、俺は今度こそ本心から笑えた気がした。
 だが彼女はやけに俺の顔を見てきた。じっと凝視してくるのは、何か言いたい時の癖だ。
「……ねえ、メモリーさん。あなたはここの人だったの?」

 ——ここは俺の故郷だ。

 ダミーと戦っている時、つい口走ったことを聞かれていたらしい。
 俺の中で諸々の考えが一瞬せめぎ合う。だが案外すぐに答えが出た。
「いろいろあって……ここを故郷だと思っている」
「…………そう」
 それっきり、メリーは何も聞かなかった。
 俺は立ち上がりつま先をトントンと数回地面へ当てる。靴紐の加減は良さそうだった。
「お前、昔好きだった子に似てる。幸せになってくれよ」
 そう茶化してみせれば、彼女はきょとんとした後、照れ臭そうに笑った。
「ありがとう。あなたの幸せも祈っているわ」
 片手を上げて答える。
 そしてメリーに見送られ、もう通ることはないと思っていた道を再び歩き出した。
 あの時と違い視界は滲みもせず、はっきりしていた。涼しい風が頬を撫でる。
 耳に端末を当て機関へ繋げた。
「……あ、コクべ? 俺。これから戻る。報告書はそっちで書くよ」
『ご苦労だった。……大丈夫か?』
「ん。へーき」
 コクべの声を聞いて、ふと思い出したことがあった。
「なあ。初めて会った時、口裏合わせてくれたの覚えてるか?」
『……ああ』
「俺の嘘がうまかったからって言ってたけど、発症者の嘘って食えんの?」
 共食いに当たらないのか、という何気ない疑問のつもりだったが、コクべはしばらく口を噤んでしまった。
 聞いてはいけなかったか、と俺が焦り始めた頃、バツが悪そうなコクべの声が届いた。
『お前についた嘘は、その一回だけだ』
 今度は俺が黙ってしまった。そして、胸の内から出てきた感覚が頬を緩める。
「俺にとっては、これが“食事”だ」
 ——と、うっかり口に出ていたらしい。
『メモリー?』
 コクべは不思議そうな声だった。端末の向こうで、おそらく首を傾げているのだろう。
「なんでもない」
 端末は耳に、目は前に。
 雲一つない朝焼けが、淡い水色を広げていた。