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第十八話



 主が留守にしている千景の研究室。
 ラスクは、執務スペースにある一番大きな窓を開け放った。
 そしてお忍びで来ていた、白い円錐を迎え入れる。
 降り立った男はこの国の王だった。
「悪いなラスク、力を貸してくれ!」
「任せて陛下!」
「方角はちょうど窓側だ。千景まで飛んで、海まで行けるか?」
「やる! ユマは何度も会っているから目が覚えている!」
 大きく頷くとラスクは一度瞼を閉じ、“眼”を開いた。
 見慣れた訓練の森を越えて、遥か彼方の景色が襲いかかるように広がる。
(……!? どうして。ユマが見えない。
 近くに居そうなマックス……もダメ。雅は……千景のところか。
 どうしよう。
 あ、ラスは顔しか知らないけどあの……)
 ぐりん、とラスクは眼に引っぱられて顔と身体の向きを変える。
 手がかりにしようとしていた人間が彼の視界に現れた。
「……え?」
 だが、それは海とは違う方角——北東だった。


 □■□


 明るい。暖かい。心地良い。
 僕はさっきまで寒かったんだと今頃思った。
「う……」
 身体を起こすと、固まっていたところを無理に動かすような鈍い痛みが走る。
 肌触りの良い真っ白なシーツが、僕からずり落ちた。
 誰かがふうと息を吐く音がした。
「……気がついたか」
「雅くん! ここは……!?」
 あたりを見回す。
 どうやら僕自身はベッドに寝ていて、その傍で雅くんが椅子に座っていたらしい。
 そして部屋は何もかもが白かった。床も壁も、調度品も全て。さらになんだか細かい装飾まで彫られている。
 別に光沢は強くないけれど、その色はどこか硬くて、雪というよりも貝殻のような印象だった。
 部屋は広く天井も高いおかげか、圧迫感は無いけど。
 窓も遠くて、外がうっすら青いことしかわからなかった。
 雅くんが再び一つ息を吐いてから言った。
「此処は人魚の国ペラタの迎賓館。陸の者を唯一迎え入れる海だ。呼吸を可能にする陣が施されている」
「げ、げいひん……?」
 道理で色々な物が高級そうなわけだ。
「海に落ちた貴様らの捜索に、同盟国ということで尽力頂いたのだ。
 俺様は、迎えとして千景兄様が入国許可を得て下さったので取り急ぎ先に来た。
 気負わず療養するよう、ペラタの長殿から御言葉を頂いている」
「そっか、ありがとう……ユマくんは!?」
 雅くんが、僕の後ろを指した。
 隣のベッドで、水色のフードは被ったまま、ユマくんがすうすうと穏やかな寝息を立てていた。小柄だからシーツに埋もれるようになっていた。
「医療官曰く、大事はないとのことだ。
 だが昨夜から彼奴の様子は奇妙だっただろう。
 貴様等が……落下する直前しか俺様は見ていない。
 一体何があった」
「……実は」
 僕は海底洞窟でのことを話した。
 わかりやすさは保証できないけど、雅くんはじっと耳を傾けてくれた。
 そして最後まで聞き終えると眉間に皺を寄せ、しばらく顎に指を当て考え込んだ。
「………………貴様、其れは他言していまいな」
「え? うん」
 むしろ目覚めて最初に会ったのが雅くんだ。
 彼は少しだけ声を潜めた。
「長殿が言うには、溺れていた貴様らを助けたと。何故か既に呪いは解けていたと」
「!?」
「最後の渦も違和感がある。
 解除に失敗したのならば理解できる。
 しかし存在に関与できるほど高度な術を使える者が、解くと明言して行った。
 ……何かが仕込まれていた可能性が非常に高い」
 僕は思わず息を呑んだ。
「そ、そんな……じゃあノーブルさんは……」
「氏は貴様を巻き込まないために身を引いたのだろう。
 誰の仕業かが問題になるが、彼女は間違いなく“リージュ”と言ったのだな」
 僕が頷くと、雅くんは椅子からすくっと立ち上がる。
「マックス、身なりを整えろ。此処は安全ではないかもしれぬ。
 如何にか俺様達だけで脱出するぞ」
「えっ?」
「リージュは……ペラタの長の名だ」
 その時、どこか甘ったるい女性の声が割って入った。
「あら、もう帰ってしまうの?」
「!」
 僕らは、ベッドの足元側にある入口へ勢いよく振り返った。
 なぜかノーブルさんを思い出したけれど、そこには全く違う青い目の人魚が一人、薄く微笑んでいた。海の中でもないのに、泳いでいるかのように浮いていた。
 彼女の髪は尾よりも長く、おしゃれがわからない僕から見ても艶やかだった。洞窟で見たような深い青色で、ゆるく曲線を描いている。一部を結い上げていて、貝のような白い髪飾りが上品に光っていた。下ろしている髪にも細い飾りが紛れ、波間の泡のようだった。
 服は雅くんの装束のように、布を身体の前で合わせて腰で留めている。彼よりも枚数は多く、浅瀬のような緑に近い水色や、もう少し濃い青、ほとんど白い布もあった。裾は尾びれの上まであって、ふんわりと広がるシルエットは人間のドレスに似ていた。
 ただ肩と胸元まで大きく開けられているので、だいぶ涼しげに見える。
 そして鎖骨の下には、美しい真珠が収まっていた。
 彼女は耳の飾りを揺らして小首を傾げた。
「お加減は如何?
 初めまして。ペラタの長を勤めます、リージュです。
 どうぞよろしくね」
 何も知らなければきっと舞い上がっていただろう。
 そんな微笑みのはずなのに、今ではわざとらしく貼り付けたようにしか見えなかった。
 彼女は入口の扉を音もなく閉める。そしておそらく、僕らが警戒しているとわかって続けた。
「陸の方には意外かもしれないけれど……海はこっそり話すには向かないのよ。
 声が響いてしまうから。
 アレはそんなことを言っていたのね」
「…………アレではなくノーブルさんです。
 あなたの、人魚の仲間でしょ「黙りなさい。二度はないわよ」
 千景先生に似た圧迫感で僕は押し黙る。
 彼女は再び形だけの笑顔になった。
「いい子にしていて頂戴ね。あなたたちの国とは仲良くしていたいの」
 すると雅くんが、僕と彼女の間を遮るように前へ出た。
「御言葉ですが……此奴を贄にする気だったな?」
「……何の話かしら」
 雅くんが言う此奴、とはユマくんのことだろう。ただ、リージュさんがユマくんの身分を知っているかわからないから濁しているんだと思う。
 いつの間にか彼は右手にパレットを隠し持っていた。
「此方は呪いについて、存在を消すものと捉えていた。
 だが此奴によれば、存在を奪うものと当の術者がはっきり述べている」

『此の海に妾より呪いを識る者はおらぬ。名すらわかれば此方のもの。
 色彩を、存在を奪う呪い。其奴にかけてやったのさ』

 たしかにノーブルさんはそう言っていた。
 雅くんが続ける。
「なぜ同胞とされることさえ厭う者を、初めから洞窟へ閉じ込めなかったか。
 ——人間に接触させるつもりだったからではないのか。
 もし呪いが完成しても、人の身では海中の洞窟から脱出は不可能。
 件の者は飢えるか溺死を強いられる」
「あらあら……どうしてそんなまどろっこしい手段を取ると?」
「まどろっこしい手段しか取れなかったのでは?」
 リージュさん、いや、長の纏う空気が一気に冷たくなった気がした。
 雅くんは構わず捲し立てた。
「ノーブル氏は優秀だったそうだな。
 往々にして、突出した才能は権力争いにおいて邪魔になり、身分の高い者同士による諍いは手が込んだものになる。
 禁止領域への立ち入りを免除すれば、我が国との繋がりを持つことも可能だ。
 “仲良くしていたい”と言ったな?
 ペラタの権力勾配は知るところでは無い。
 だが今回の事態は我が国が後ろ盾になり、かつノーブル氏を排斥できる非常に効率の良い手段だ」
「…………」
「言い忘れていたが、俺様は忽那御堂楼家が嫡男、雅。
 此の身に何かあれば国家が動くぞ」
 雅くんが自分から家柄を名乗っているの、初めて見たかもしれない。
 長は華奢な指を口元へ持っていった。
「まあ、第一貴族のご子息だったのね。道理で品があると思った。
 ——ところで、どうして今それを言ったのかしら?
 黙ってこの場を切り抜けて、あとで偉い人に告げ口すれば良かったのに」
(た、たしかに……!)
 僕はつい雅くんの背中へ縋るような目を向けてしまった。
 けれど彼が口を開く前に、長がくすくすと笑みをこぼした。
「意地悪を言ったわ。
 その子達がとても大事なのね。
 利用されたことにそこまで怒るなんて、よっぽどでしょう」
 そこまで、と言うけれど僕から雅くんの顔は見えない。
 彼女の纏う空気がふと緩んだ。
 雅くんへ向ける眼差しも変わり、天気の良い日の庭園を見るような、どこか眩しそうなものになっていた。
「綺麗な子」
「…………は?」
「人間一人ひとりが大切なものを守ろうとして相手を壊す。争いを生む。
 でも、あなたはそうしなかった。
 私を壊さないけれど、仲間を傷つけることも許さないと示した。立ちはだかった。
 それが綺麗だと思ったのよ」
 長は目を逸らすように窓の方を見遣って、小さく呟いた。
「国王の性質によるのかしら。
 ……他の国もそうなら良いのにね」
 彼女が何を思って言ったのかはわからない。僕らに知らせる気も、多分ない。
 長はくるっとこちらを振り返った。
「答え合わせしましょうか。信じてくれる?」


 リージュは宙を優雅に進み、入口近くのソファへするりと座った。髪と裾が水中のように揺らぐ。
「そのままで構わないわ」
 とは言われたものの、マックスはベッドから出て雅に並んだ。
 彼女はそれをただ見てから、口を開いた。
「事の始まり……人間に真珠を奪われたことについては、きっと貴方の予想通りよ」
「きっと?」
 雅が眉を顰めた。
「アレは何が起きたかも、その人間の名も決して口にしなかったの。
 ……おそらくそこまで全て計算されていた」
 マックスは思わず拳を握りしめる。
 リージュが続けた。
「嘆願で極刑は免れたけれど、自ら誇りを差し出した大罪人として牢に入れることになった。陣を使わせない刻印付きのね。
 アレは誰にも気づかれずに……静かに狂っていった。
 そして刻印を跳ね除け、来賓の姫君を呼び込んだ」
 リージュが正規の姫君を知っていることに、マックス達は視線を見合わせた。
「……知っていたんですね」
「もちろん。幼い頃にお会いしているもの。
 迷ったと聞いて、総出で探し回ったことも覚えているわ……まさか牢にいるだなんて。
 本来、刻印は呼び込むどころか、文字の一つも出せないようなものなのよ。
 その影響で呪いが遅くなったのかもしれないから、無駄ではなかったのでしょうけど」
 マックスがふと思い出したことを口にする。
「あの……ユマく、いや、本人は青い花から色をもらって呪いの進行を抑えていると」
「ええ。むしろそちらの方が確実だから、そう伝えたわ。
 姫君は、あなたには話したのね」
「まあ、ちょっと事故みたいな感じですけど……」
 それとほぼ同時に雅がマックスを振り返っていた。珍しく引いた顔をしている。
「貴様……其れは重大機密では?」
「へ?」
「呪いは人魚特有の陣と言っても過言ではない。
 そしてペラタはパレット原料の白珊瑚を唯一生産しているにも関わらず、戦争を仕掛けられたことはない。
 ——呪いが恐れられている故だ。
 描画後の陣が色の影響を受けるなど聞いたこともないが、好戦的な国家が知れば攻め入るぞ」
「…………わー!!?? ごごごごめんなさい!」
 リージュはそんな僕らに目を細めた。
「ふふ、いいわ。
 私達が差し出せる最大限の誠意だったから。
 青色で人魚の陣が滲むことは、他には秘密よ」
 彼女は続けた。
「機密の他に、白珊瑚の融通もしたわ。
 国王には、姫を使ったようになるから、って最初は断られちゃったんだけど。
 ……戦争にしない体裁は必要だから、申し出を受けてくださったわ。
 見えるかしら? これ」
 リージュが左の袖を捲る。
 その細い腕は、一部が穴の空いたように透き通っていた。
 見覚えのあるそれにマックスと雅が絶句するが、彼女は宥めるように言った。
「大丈夫よ。ただの実験。これ以上広がらない。
 私達では同じものをかけることすら出来なかった」
 リージュはするすると裾を直して続ける。
「アレの受けた仕打ちは、姫君を呪って良い理由にはならない。
 国王に慈悲をかけられたのはこちら。
 解呪の方法を探さない日は無かったわ」
 リージュの髪が揺蕩うだけの重たい沈黙がしばらく流れた。
 口火を切ったのは雅だった。
「其方の誠意は理解した。
 だが……呪い返しについての説明を求める。貴殿の名が出ている以上、見逃すことは出来ぬ」
 彼はまだパレットを収めていない。
 リージュは目を伏せ、開き、そしてまっすぐ彼らを見据えた。
 けれどやっぱり決意が鈍るのか眉が少し下がる。
 そしてついに、囁くように、子どもを慰めるように言った。
「……解呪を諦めていたわけではないの。
 でも万が一なんて絶対にあってはならない。
 だからね、あの時に身代わりの陣を噛ませたの。
 もし呪いが成就したら私へ降りかかるように。奪うなら、私から」
「え……?」
 声を返したのはマックスで、雅は嫌な予感で口を引き結ぶ。
「話を聞いて驚いたわ。
 たしかにあの文字列は、術者が自分で解けば……列を乱して結果的に呪い返しになる」
 マックスが口を手で覆った。
 見開かれた目は、二度と変わることのない過去しか映していなかった。
「おい……!」
 雅がマックスの肩を掴むが焦点は戻ってこない。
 するとリージュがふわりと近寄り、マックスの顔を両手で掬い上げた。
 海色の瞳に彼が映る。
「っ!」
「勘違いしないで。
 ただの報いよ。何の罪もない幼子を呪い苦しめた報い」
 マックスを自分へ向かせたまま、リージュは言い聞かせるように続けた。
「強いて言うなら私の落ち度。
 自分で解くわけがないとあの子を諦めた、人間に心を開くなんて考えもしなかった。
 私のせいよ」
 マックスは一度奥歯をギリ、と食いしばり、そして声を押し出した。
「今の話は……っ、ユマくんにはしないでください……!
 僕だけでいい……!」
 知れば、ユマは明るく振る舞う裏で思い悩むだろう。呪いからの解放と引き換えになった彼女を憂い、マックスに選択をさせたことを引きずる。
 生き延びたことが重荷になってしまう、と。
 マックス本人は、自分のことは二の次だった。ノーブルが消えたことは、当然のように己だけの罪。そこに疑いはなく、ユマを救うため、などと理由をつける発想もない。
 リージュはそんな“彼ら”に目を細めた。
「…………優しい子」
 マックスのジャケットが——紫のグローブに強く引っ張られた。

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