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第十七話


 拝啓、エクセランサ。

 そう始まる兄からの便りは、しばらく届いていない。


 □■□


「千景兄様!!」
 怒号に近いその声で千景は飛び起きた。
 彼と相部屋の警備隊長は見張り当番で不在だ。
 部屋の入り口には、全身びしょ濡れの雅が肩で息をしていた。
 千景は珍しく狼狽えた声を出す。
「み、雅……? そんなにずぶ濡れでどうし「海に、っ落下しました! っぜぇ、ぜぇ……二人が!」
 途切れ途切れの説明だが、千景はそれが誰を指しているのかをすぐに悟った。
「どういうことです。なぜ海に」
「わかりません……! ユマがこの悪天候の中ふらついているのを、マックスが発見し……!
 一昨日の晩にも同じ事がありました……本人は寝ぼけていたと、しかしその時点で報告すべきだった……!」
 ぽたぽたと雅の頬を雨水が伝う。
 彼は見失いながらも方向にアタリをつけて追いかけたが、間に合わなかった。
 ぎり、と音がするほど雅は拳を握りしめる。
 そんな弟を、千景は宥めるように言った。
「落ち着きなさい。すぐに緊急の連絡を回します」
「……?」
「海には同盟国があるでしょう。
 人魚の国、ペラタが」


 □■□


「……………………う、けほっ」
 僕は自分が噎せる声で目を覚ました。
 潮とカビが混ざったような臭いが鼻に刺さる。
 身体を起こすと、水を吸った服が重くのしかかった。
(ここは……)
 岩肌が剥き出しの洞窟だった。どおりで小石を踏んだ顔や手のひらが痛むわけだ。
 松明とかは見当たらないのに薄ぼんやりと明るい。陣がどこかにあるのだろうか。
 振り返ると真っ青な、海。
(え!?)
 僕はギョッとしてしまった。
 深海の濃い青色が、洞窟の天井より上まで続いていた。水が入ってこないよう、透明な壁の陣で蓋をされているみたい。
 つまりここは海の、底の洞窟。
(ってユマくんは!?)
 僕が慌てて周囲を見回すと、ところどころ水滴で地面の色が変わっていた。
 その先に、ふらふらと奥へ進む小柄な水色がいた。
「ユマくん!」
 全速力で追いかけて、今度こそ腕を掴んだ。
 けれどユマくんは僕が見えていないように前進を続けるので抜けそうになり、手首を掴む格好になった。
 違和感でそこに目を向ける。
 いつもの紫のグローブはなく、ユマくんの指があるはずの部分は透き通っていた。
「!?」
 その光景に息を呑む。
 と同時に僕らはまた落下した。
「痛っ……!!」
 土壇場でユマくんを自分の上に引っ張り、僕は背中を強く打ち付けた。
 一瞬息が止まる衝撃の後、じわりと痛みが広がる。
(大丈夫、ドラクーン試験の時よりマシだ……!)
 どうやらさらに掘り下げられた空間があったらしい。
 洞窟内なのに、崖と言っても良いくらい垂直な段差があった。
 その高低差は自分が仰向けになっていることを差し引いても僕の倍はある。
 ユマくんは無事だった。
 だけど僕の上にいることに気づいている様子はなく、倒れた体勢で足をバタつかせていて、前進する機能がついた人形が転んだようになっていた。
「ユマくんどうしちゃったの!? しっかりして……うわあああ!?」
 僕は悲鳴をあげて飛び退いた。ユマくんを抱え込んで、落ちてきた岩壁まで後ずさる。
 茶色い手が一本、こちらへ伸びていた。危うくもう少しで触られるところだった。
 手の持ち主は、さらに窪んだ穴のような場所から身を乗り出していた。腕は一部鱗になっていて、汚れや苔がこびり付いて茶色くなっていた。服の袖も元の色がわからないくらいにボロボロだ。
 顔はあまり見えず、腐った海藻のような色のベトついた長髪がほとんどを覆っている。その隙間から恨めしそうな、ギラついた眼光が覗いていた。
 その怪物は穴から出て来れないらしく、ユマくんへ届こうと地面をカリカリ引っ掻いた。
(なんだあれ……!? 雅くんに心話術を……繋がらない!?)
 パニックになりかける僕をよそに、ユマくんはその怪物へ向かおうとしていた。
 小さな身体からは想像できないほど力が強くて、僕は両腕でユマくんを羽交い締めにするしかなかった。パレットを構える余裕もない。
「ユ、ユマくん止まって……!」
 すると、こんな緊急事態に似合わない澄んだ声が聞こえた。
「彼奴ら……此の期に及んで当て付けか……!」
 歌ったらどれだけ綺麗なのだろうと思わされるその声は、まさかの怪物から出ていた。
 怪物は窪みにずるずる身体を戻し、目から上をこちらに覗かせている。
 よく見ると窪みには濁った水が溜まっていて、怪物が横になってようやく全身が水に浸かるくらい浅かった。
 出てこないことは助かるけど、理由もわからず僕はただ困惑していた。
「だ、誰……? あいつら……?」
「愚図な人間め、其奴をさっさと寄越せ!」
 バシャン! と窪みの水が波立つ。
 動物の尻尾のように怒りを表すそれは、鱗で覆われていた。
 よく見ると怪物の身体は女性だった。
 海、鱗、半分が人間ということは。
「人魚……?」
 その瞬間、相手はこれでもかと目を見開いた。
「愚かな生物め! 妾から鱗一枚でも奪おうものなら呪い殺してやる!
 真珠で不老不死になど成るものか! 妾を謀り奪った不届き者め! よくも妾の誇りを……許さぬ、決して許さぬ!
 さあ其奴を! 寄越せぇえ……!!」
 最後の方は泣き崩れるように顔を伏せていった。引き攣った嗚咽が小さく聞こえる。呼応するように、ユマくんも大人しくなっていた。
 実物を見たことはないけど、僕が知っている人魚の姿とはだいぶ違う。だいたいこんな洞窟に取り残されている事がおかしい。
 そして多分、この彼女は何かを奪われた。
 聞こえた単語は不老不死と、真珠。つい最近の記憶が蘇る。
「……真珠姫?」
 すると人魚さんは力無い笑いを漏らした。
「…………其奴も語っていたな。そんなものは都合良く整えた御伽噺に過ぎぬ。
 差し出したなど、よく言えたものだ」
 彼女が自分の胸元をさする。そこは球体の何かがはまっていたように窪んでいた。
「そんな……」
 つまり不老不死を求め、彼女の真珠を奪った人間がいた? いつの時代の迷信だよ。
 たしかに人魚は人間よりずっと長生きだ。
 けれど、そもそも彼女たちには国家も人権もある。勝手に他人の髪を切ったり売ったりしてはいけないのと同じで法律が守ってる。自然に代謝される鱗でさえそうなのに、真珠なんて論外だ。
(いったい、いつからここに……?)
 少し落ち着いた人魚さんが顔を上げた。血走った目が、今では泣き腫らした後のように見えた。
「だが如何なる理由でも、真珠無き人魚は人魚に非ず。妾は此処に幽閉された。
 ……そんな或る日、現れたのがその童よ」
 彼女の枝のような指がユマくんを差して言う。
「あの頃は城の牢にいたからな。
 迷い込んだ哀れな童が、妾に名を答えた。
 彼奴らの慌て様……! 今となっては唯一、声を出して嗤える」
 人魚さんは片顔を覆い、くつくつと喉を鳴らして続けた。
「此の海に妾より呪いを識る者はおらぬ。名すらわかれば此方のもの。
 色彩を、存在を奪う呪い。其奴にかけてやったのさ」
 ドラクーン試験の後、城で見せられた透明な指先を思い出した。それから、凛と立つ小さな背中も。

『私は入ってはいけない領域に迷い込んでしまった。
 小さい頃だから全然記憶はないけど、そこで呪いを受けた』

 僕は声を荒げた。
「なっ……! ユマくんは悪くないでしょう!? 解いてください!!」
「良いだろう」
 彼女は、口と目を歪なほどに湾曲させて続けた。
「貴様が代わりになるならば」
 空気が凍る。
 それを揺さぶるように、彼女の声は囁きからどんどん大きくなっていった。
「妾が触れれば呪いは完成する。しかしそれまでは移し替えも利く。
 だが其の様なこと出来まい!
 結局、貴様等の恋や愛など我が身可愛さに劣る戯言よ!」
 洞窟内に高笑いが響き渡る。
(僕が代わりに……?)
 それで、どうやってユマくんは地上に帰るんだ? 本当に帰してくれるのか?
 必死で考えを巡らしていると、脳内にペリドット副隊長の言葉が割り込んできた。

『なにかを守って死ぬのは美談になるが、損失がデカすぎる。
 未来で何人守れた? 守られた奴はどうなる?
 這ってでも生き延びろよ。戦士だろ』

(……怒られちゃうな)
 ダメだ。二人で帰る方法を。
 その間も人魚は誰かへの罵倒を続けていて、すらすら出てくる言葉たちは、最終的に金切り声とも悲鳴とも聞こえるものになっていた。
「嗚呼、嗚呼……名を呼ぶことすら疎ましい!!
 貴様も彼奴と同じ、口先だけなら何とでも言えるのさ!!」
 今吐き出しているのも呪詛なのでは? と思うほど彼女の言葉は止まらない。
 けれど僕の中で引っかかったことがあった。
「あの……」
「何だ!? 怖気づいたか!?」
「どうして、裏切ったその人に呪いをかけなかったんですか?」
「は」
 人魚の全てが停止した。
 耳鳴りを招きそうなほど、洞窟内が急に静まり返る。
「名前を知っていたなら、かけられたはず——「黙れ黙れ黙れ!!」
 彼女は怒鳴るけれど、ユマくんは暴れていない。
 それが答えだった。
 僕はもう彼女に敵意を向けられなかった。
 人魚さんは声を張り上げる。
「今すぐ選べ!
 其奴を寄越すか、貴様が身代わりになるか。
 いずれにせよ貴様が弱った瞬間、其奴が妾の元に辿り着く!」
「あなたもです」
 自分でわかるほど低い声だった。
 僕、怒ってるのかな。でも人魚さんは悪くないのに。
 感情をぶつけないよう押さえて、僕は続けた。
「僕を代わりにしたら怒られちゃうし、ユマくんを渡すこともできません。
 だけど僕はあなたも連れて行きたい。
 ここから出ましょう」
「綺麗事を……! 妾はもう騙されぬぞ!」
 彼女が何を言っても、今では苦しそうにしか聞こえない。
 僕は限界だった。
「だってあなたは呪わなかった!
 真珠を盗られた被害者なのに、自分が苦しむことを選んだ!
 そんなこと知って見捨てられるわけないだろ!!」
 怒鳴ったせいで喉が痛む。
 人魚さんの目が大きく見開かれた。澄んでいるけれど、どこまでも深い海のような青色だった。
 僕は息を吸って、吐いて、落ち着かせた。
 急に、雅くんに怒られそうだと思ったから。
(だって、これしかないよ?)
 自分で動けないユマくんを抱えて崖を登ることは難しい。だいたい今の体勢で押さえつけるのもギリギリなのに、もし登っている時に暴れてしまったら力負けしてしまう。
 僕だってずっとこうしていられるわけじゃないし、助けも呼べていない。
 そして人魚さんを連れて行こうにも、多分今のままでは呪われる。
 つまり彼女に信頼してもらえない限り、どうやっても脱出はできない。
(だけど信じてもらえれば、僕が裏切らなければ……みんなで行ける)
 その方法——賭けはすんなり思いついた。ここが一番雅くんに叱られそうだけど。やらなければ同じだ。
 僕は人魚さんの目を見て言った。
「マキシマムといいます。あだ名はマックスです。
 一緒に行きましょう」
 彼女は、見るからに呆気に取られていた。
 パチパチと人魚さんが瞬きを繰り返すだけの時間が過ぎる。
 そしてハッとした彼女は、少しひっくり返った声だった。
「き、貴様正気か……? 何故名乗った?
 妾は名さえわかれば……」
「ええ。
 その人があなたにしたことは許されない。同じ人間の僕を信じてもらうには、これくらいしなきゃ。
 それに一緒に行くなら、あだ名で呼んでくれた方がきっと仲良くなれる」
 しばらく無言で揺れていた彼女の瞳が、スッと細められた。
 上へ突き立てられた指から、澄んだ浅瀬のような薄い青緑の光が立ち昇る。
 僕ら全員の頭上に円形の陣が現れた。
「……問おう、マキシマム。貴様、先の言葉は本心か?」
「はい」
 口が勝手に動く。びっくりした。そういう陣だったのか。
 彼女は尋問を続けた。
「如何にして、ここから妾も連れて行く気だ」
「あっ! 考えてなかった……!
 ユマくんは頭いいし、人魚さんは呪いに詳しい。
 僕は何か吹っ飛ばすくらいならできるから……あのあたりに穴を開ければ泳いで行けます?
 あっ、でも僕らが溺れないようにはしてほしいです……。
 雅くんに心話術が繋がれば迎えに来てくれると思うんですけど、あっ、雅くんっていうのは同期のすごく優秀な子で」
「……ふ、はは」
 くすくすと可愛らしい声があがる。
 あっ、が多いとは自分でも思ったけど、ちょっと笑いすぎじゃないかな……。
 命がかかっている場面なのに、僕が妙に恥ずかしい時間がしばらく流れた。
 そしてひとしきり腹を抱えた人魚さんは、緩く微笑み目尻の涙を拭った。
「は〜笑うた笑うた」
「ううぅ……」
「ふふ。
 ……我が名はノーブル。連れて行っておくれ、マックス」
「! はい!」
「妾も応えねばなるまい。まずは其奴の呪いを解こう。
 ……済まなかった。目を覚ましたら、改めて詫びの言葉を」
 ノーブルさんは両手を、ユマくんを包むようにかざした。
 するとユマくんから海色の光が溶け出る。
 それはノーブルさんに向かい、かざした手の間から一本の線になって宙へ浮かんだ。よく見ると線は文字列だった。古い文字ばかりで内容はわからない。
(す、すごい文量……教科書より多いんじゃ)
 存在を消すような呪いが簡単であっては困るけれど。
 文字列はさらに四角く形を描いていった。転送陣より複雑で、どこがどうなっているのかサッパリだ。
 ユマくんから最後の文字が抜ける。
(ん?)
 陣が完成する間際だった。
 僕側から見ているからか、筆跡というか、雰囲気の違う文字が終盤に混ざっていることに気づく。多分、一単語分の三文字。
 突然それが裏表逆にひっくり返った。そして煮詰めた血のように赤黒い光を放ち始める。
 やっぱりそれはおかしなことだったらしく、ノーブルさんも目を丸くした。
「な……!?」
 今まで従順だった文字たちがピタリと動きを止める。
 そして高速で反対向きに流れ、ユマくんから最後に出た文字を先頭に、ノーブルさんの周りをぐるぐる回り始めた。
 あっという間に文字の渦が出来上がる。
 渦は空気すら巻き込んでいるのか、ユマくんくらい小柄な人では飛ばされそうだった。
 そして中心のノーブルさんの輪郭を——泡にして削っていった。
「彼奴……リージュめ……!」
「ノーブルさん!」
 僕はユマくんを抱えたまま、どうにか渦に手を伸ばす。
「マックス……!」
 ノーブルさんも文字列に削られながら腕を伸ばしてくれた。
 けれどその手はなぜか、触れる直前に引っ込められてしまった。
 そして彼女の全ては泡となり、渦と一緒に消えていった。
「ノーブルさん!!」
 その瞬間、背後から冷たい空気の流れが押し寄せる。
 見上げると、轟音と共に重たいくらいの濃い青が——海水が洞窟に流入していた。
 
 暗転。

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