第二十話
日が沈み、まだ薄く明るいところもあるものの、闇夜がやって来ていた。
その中を流れる星のように白銀の竜が飛ぶ。
冷たい風を浴びながら、アーモンドはドラゴンの背を撫でた。
「……ちえ」
拗ねた子どものような声は、誰にも拾われないはずだった。
「アーモンドくん!!」
ギョッとして彼が振り向くと、マックスがドラゴンの尾にしがみついていた。どうにか落下していないものの、足は宙ぶらりんである。
信じ難い光景にアーモンドは目を丸くする。
「ええ……そうはならないでしょ」
「あっのさ! ちょっとよくわかんないけど! 君と、話したい!」
間抜けな格好のくせに、マックスの言葉は至って真剣だった。
「…………話すことなんて無いよ」
呟いたアーモンドは切り立った岩山へドラゴンを寄せる。
それはフェリクシアとの国境をつくる広大な森の中で、塔のようにそびえ立っていた。
徒歩や馬では何日もかかる場所で、草木も生えない岩肌が寂しさを感じさせた。
アーモンドがパッと飛び降り、同時に白銀のドラゴンは尾を上げマックスを自分の背に落とした。
「痛っ……アーモンドくん!?」
「身代わりよろしく」
岩山を通りがかるような飛び方で、追っ手がいてもアーモンドが降りたことは見えにくい。
ドラゴンはすぐに岩山から離れ、人間如きに出来ることを失わせた。
それを見送ったアーモンドは岩肌をさっさと下った。
森に入ると、上空から光に気づかれにくいであろう、葉の密度が濃い場所を選ぶ。
いつもしている赤いブローチを爪で叩くと、パレットが出てきた。
通常の物より分厚いそれをアーモンドが握り込み、手の甲を上にして宙へ突き出した。
そして拳を九十度回転させると陣が展開される。
扉のように彼の前へ現れたのは、千景のワープ陣だった。
「そこまでだ」
しかし、声と同時に強い風が——深緑のドラゴンが細い枝を折りながら強引に着地し、雅がその背中から舞い降りた。
見覚えのある青い光に、雅の眉目が歪む。彼はまだ、パレットを手にするだけで向けられなかった。
アーモンドは肩をすくめた。
「よくわかったね」
「……昔、此のような戦術の話をしただろう」
「覚えてたかあ」
彼はわざとらしく、あちゃあ、と額に手を当てる。そして冷たい声で続けた。
「あのドラゴンには透明君が乗っている」
「!?」
「今ならまだギリギリ追いつくと思うけど、フェリクシアの領空に入ったら取り返す術はない。
不法入国の犯罪者扱いだよ。
珍しいスペクトルだから、とりあえず手足は切られるんじゃないかな」
露骨な揺さぶり。
アーモンドはその隙をついてフェリクシアまで飛ぶつもりだった。
しかし、ワープ陣の青い光を真っ赤な閃光が貫いた。
「……此処は俺様が残る。貴様はマックスを取り返せ」
「チッ! 武運を祈るぜ!」
緑のドラゴンが飛び立つ。
捲り上げるような風の中、先に動いたのはアーモンドだった。
二人を分断するように、緑の炎が森の色彩を味方につけて壁となる。
それだけではなかった。
「雅を見習っておいてよかったよ」
アーモンドのパレットから緑の光が一本放たれる。それは炎を纏いながら突き抜け、光度を増して雅へ襲いかかった。
雅が躱すと、光は彼の後ろの立派な木を抉った。
「花火……!」
「攻撃手段、無いと思わないことだね」
「……」
雅は自分が歯を食いしばっていたことに気づいた。眉間にも強く力が入っている。
口を閉ざしていた彼は、ついに、赤く染まったパレットを向けた。
「千景兄様に替わり……アルモンド、貴様を捕縛する」
□■□
僕はここまでの絶望を感じたことはない。
飛び降りたら即死の高さを、銀色のドラゴンは悠々と進んでいた。
(どうしよう……アーモンドくんのところに戻りたいのに、それどころじゃないな)
行く先はフェリクシアの方角だった。
僕は銀色の鱗に視線を落とす。
(最初からドラクーンだったのか)
試験の時、彼はいなかった。意図的に落ちたのかもしれない。
この竜も契約者の命令だから僕を乗せているだけで、服従の意図はない。荷物みたいな認識だろう。
つまり僕の言うことは聞かない。
(せめてもう少し高台があれば、下にひまわりを撃って勢いを相殺して……)
あたりを見回していると、後ろから何か飛んできていた。
銀のドラゴンだってすごい速さなのに、その影はどんどん距離を縮めてくる。
「……!」
雅くんのドラゴンだ。
銀の竜も気づいたみたいで、大きく旋回して後ろを向くと火を噴いた。
豪炎と呼ぶにふさわしく、背中に乗っている僕すら熱風を感じる。
緑のドラゴンは素速くそれを避けながら接近して来た。
(飛んでる位置が低い……!)
けれど銀色にもその狙いが読まれ、距離を取られる。すかさず炎も繰り出された。
僕は振り落とされないように両手でしがみつくしかなかった。
緑のドラゴンも火を噴いてなんとか近づこうとするけれど、銀のドラゴンの方が身体が大きい。炎も比例して、緑色はどうしても押されてしまっていた。
焦げた臭いが僕のところまで漂う。
(僕がいるせいでちゃんと反撃できないのか)
その時、ドラゴンの咆哮が響き渡った。
銀でも緑でもなく、騎士団を乗せた二竜だった。
彼らが銀色の行手を阻む。
けれど、三対一になったにも関わらず銀のドラゴンは、僕を逃す隙を与えなかった。
そしてついに雅くんのドラゴンが正面から炎をくらってしまった。
「〜〜!! アッヅー! ちょい待ってろよ!」
緑のドラゴンはそう言ってみせるけど、明らかに速度が落ちていた。
(……片手、離せるか?
背中にひまわりを撃ち込めれば……その前に落ちるかもしれないけど)
僕が手を離そうとした時だった。
突然、銀色のドラゴンの左の翼が無くなった。
——実際は闇色の炎に包まれ、見えなくなっていた。
僕もギリギリ焼けないくらいの熱風を浴び、顔を伏せる。
ドラゴンがガクンと左側に傾いた。
同時に僕は視界の端の緑色へ、反射的に飛んだ。
「っしゃァ奪還完了ォー!!」
雅くんのドラゴンが背中で僕をキャッチし、銀色から離れる。
僕らと入れ違いに戦闘へ参加したのは、暗闇に紛れそうな黒いドラゴンと千景先生だった。
漆黒の竜は口の端から、その鱗と同じ色の炎を覗かせた。
「悪いねえ。あたしゃいっつも出遅れる」
「いいえ。頼りにしています」
そして千景先生から僕へ心話術が飛んできた。
『帰還しろ、と言っても聞かないでしょう。
君は彼と雅のところへ』
騎士団のうち一人が僕らの方にやって来た。
緑のドラゴンは、心話術は聞こえていないはずだけど早々に石の塔へ向かった。
「そっち任せましたぜアネゴ!!」
轟々と風を切る中、僕はボロボロの鱗に掴まる。
「ごめんなさい、僕のせいで……!」
「大したことねえ!
それよかオマエあいつのダチだろ! なんとかしてくれ!
あんなムゴいこと、ねえだろ!」
□■□
泥まみれ、傷だらけ。
喧嘩直後の訓練のようだった。
雅のパレットから真っ赤な稲妻が迸る。
それはアーモンドの張った緑の炎を吹き飛ばしはしないものの、当然のように貫通した。
ただ在るだけのような炎の壁だが、アーモンドが反撃で放つ花火の威力を補い、稲妻と渡り合うまでにしていた。
避けては撃ち、食らっては撃ち。
実力は拮抗している。文字通り互いに削り合っていた。
しかし雅の足が木の根に取られ、一瞬反応が遅れる。
彼が回避から防御陣の展開に切り替える、わずかな隙。
花火を叩き込むには充分な時間だった。
だがアーモンドもその瞬間、動きを止めていた。動けなかった。
直後、二人の頭上から強風が吹き下ろした。
「アーモンドくん……!」
マックスの声と共に、深緑の竜が半ば崩れるように降り立った。ゼエゼエと口の端から炎に満たない火の粉を漏らす。満身創痍ながら、騎士団のドラゴンを置き去りにする速度でここまで来たのだった。
マックスが緑色の背中から飛び降りた。
「危ない!」
雅の警告と同時に、マックスへ花火が撃たれた。
避けては後ろのドラゴンに当たる。
マックスと、遠隔で雅の張った防御陣が緑の光を遮った。
アーモンドがわざとらしく呟く。
「……ざーんねん」
雅が前衛に出て攻撃を放ち、アーモンドをマックス達から引き離した。
撃ち合う彼らをマックスは見ていた。
そして駆け出し、森に響き渡る大声で叫んだ。
「ダメだ!!」
闇を切り裂く鮮烈な黄色が、雅とアーモンドの間に割って入った。
マックスのひまわりが、同時に撃たれていた稲妻と花火ごと、炎の壁を霧散させた。
呆気に取られる二人に再度マックスが、泣きそうな声で訴える。
「君たちは……戦っちゃダメだよ……!」
笑ったのはアーモンドだった。
「ほんとお人好し。まだ仲間だと思ってんの!?」
それに雅が続ける。
「此奴は千景兄様の陣を持っていた……!
言い逃れなど出来ぬ、紛うこと無き間者だ!
フェリクシアに横流ししていたのも此奴で、俺様に近づいたのも……!」
「そんな苦しそうな顔して、何言ってんだよ!」
アーモンドも雅も目を見張るが、マックスは構わず捲し立てた。
「どうしてスパイなんてやってたのか僕は知らない。
けど君は、雅くんが大事だろ!」
それは二人を停止させるには充分だった。
息を切らしながらマックスが続ける。
「だけどっ、きっとフェリクシアも大事だよね。
フロールは、好き?
両方のこと知ってるのは君だ。
僕は戦争したくないし、アーモンドくんと仲間でいたい。
そのために力を貸してほしい。一緒に考えてほしい。
君が必要なんだ……!」
アーモンドは目を丸くする。
そして、雅の方を見てしまった。
環境や産まれに恵まれた彼への嫉妬など、とうの昔に消え失せていた。近くで見続けていれば、その努力と気高さがいかにふさわしいか——いじらしいか、よくわかる。
それを知るのは自分だけで良かった。
同時に、張り続けている肩肘と、頑なに崩れない眉間の皺を何とかしてやりたかった。
叶えたのは自分ではなかったけれど、それでも良いと思えてしまった。
捨てられる、わけが。
「………………はあ〜あ。参りましたっ」
そう両手を上げたアーモンドの周りが、ふいに明るくなった。
彼の背後に、灰色がかった青い女が浮かぶ。
マックスと雅のどちらが呟いたか。
「シルヴィアの、呪い?」
□■□
(はは、灯みたい)
いつの間にかあたりはすっかり暗くなっていた。
俺の後ろのシルヴィアが、辺りをぼんやり照らした。
首に青白い小指がかけられる。
見上げると、シルヴィアに付属して時計がいくつか浮いていた。
時間を示す数字は無く、針だけがカチコチ進んでいた。
「一分くれるってこと? ……ずいぶん、ゆるい条件にしてくれたんだね」
シルヴィアが微笑んだ気がした。
そして雅が、喉が切れそうな声で叫んだ。
「やめろアーモンド!! 何もするな!!」
「前に、ミスっててね。もう後がない。
でも初めて自分で決めたことなんだ」
そう、初めて。
君の隣にいたのは偶然だった。全部言われたままのことだった。
でもこれだけは、この選択だけは違う。
透明君がシルヴィアを吹き飛ばそうと俺の上へ光を放ち、雅もそれに続こうとした。
「みやび」
たった三つの音を、今までで一番丁寧に並べた。
雅が俺を見る。
伝えたいことは結構あるけど時間が無い。
だからこれでいい。
言い切るために俺は大きく息を吸った。
「ワープを使って内側から崩す作戦なんだ。
俺の私物が目印になっている。地方にも置いてったから全部燃やして。魔女科の探索陣で引っかかるはずだから。
タイムリミットは、明後日の深夜」
あと二十秒。
もう距離を取らないと間に合わない。ほらほら早く行って。
「頼んだよ」
綺麗な金色の瞳が丸く大きく見開かれる。
一緒に行った夕焼けの湖を思い出した。
そして雅は、なおも食い下がるお人好しを引っ張ってドラゴンに飛び乗った。
「アーモンドくん!!」
「っ飛べ!!」
二人を乗せた姿が夜空に遠くなっていく。ドラゴンの緑は暗い色のはずなのに、星みたいに煌めいていた。
俺を包む光が膨張していく。やけにゆっくりと感じた。
(久しぶりに泣いてるとこ見たなあ)
君に出会えたこと、君にまつわったこと。
全て、全て誇りに思う。
「バイバイ」
後悔などないさ。