ココアの悪魔


 女がココアをかき混ぜていた。
 彼女しかいない広すぎる家で、たまにスプーンがぶつかる音がする。
 カップに注がれた暗色のそれが渦を巻いていた。
 椅子に三角座りする彼女の横で、同じように空間が黒く渦を巻いた。
「フフフ……我を呼びし者はそなたか」
 その真っ暗な窓を引き裂き腕が出てきた。人体模型の筋肉がそのまま動いているような、血の色をしていた。続く頭部は逆に黒い毛で覆われ、闘牛のように鋭利な角が生えていた。
 禍々しいそれは、まさしく悪魔だった。
「願いを叶えよう……その代償は−−」
「呼んでいないけれど?」
 悪魔は穴から音もなく着地した。生き物を怯え上がらせる目が点である。
 しばし無言が流れた。
「いや、呼んだであろう。紋様と打ち鳴らす鐘の音で……」
「これのこと?」
「そうそう」
 女がスプーンをカンカンとカップに打ち付けた。人ならざる化け物を前にしても通常運転である。 
 立っている(正確にはやや宙に浮いているが)悪魔の方が狼狽している始末であった。
「呼び出す意思は全くなかったから、お引き取り願える?」
 だがその時、悪魔は本業を思い出した。何度も聞いた台詞だった。
「それはできない。呼び出した時点で契約は完了している。
 破棄するならば、命が代償だ」
 悪魔は真っ赤な腕とその先に生える刃物のような爪を広げた。だいたいの人間はこのあたりで噎び泣き、命乞いを始める。
「じゃあ、お友達になりましょう」
「は?」
「私のお友達の定義はね」
 肉を裂き臓物を引きずり出す口があんぐりと開いた。
 悪魔の剣山のような歯が見えていないのか、女は続ける。
「困っていたら助け合って、悩みがあったら話を聞く。
 予定が合えば楽しく遊んで、間違っていたら思いやりで諭すの。
 それで、たまに喧嘩をしても殺しあわずに、いつか必ず仲直りするのよ」
 願いを受け付けた光が、呆然とする悪魔を放って輝き出す。
「あと、友達のものは勝手にとらないのよ」
 最後に付け加えられたその一言で、悪魔は女から何も奪えなくなってしまったのだ。

 □■□

「おい、みじん切りができたぞ」
 女に言われるがままに友達になってしまった悪魔は、玉ねぎをみじん切りにしていた。エプロンは女のものを借りている。
「ありがとう。あら? 包丁は使わなかったの?」
「こんなもの我の爪で充分だ」
「そう? 匂いが気にならないならいいけれど」
「……」
 悪魔は手を嗅ぐ。そして涙目で蛇口を捻った。
「この世のものとは思えん……」
「あなたが言えたことじゃないわよ」
「これは食いものなのか? 毒じゃないのか?」
「大丈夫よ。とっても美味しくなるの。入れるのと入れないのでは大違いよ」
 しばらくすると、二人分はゆうに作れる鍋の中に、シチューが出来上がっていた。
 盛り付けて、悪魔と女がテーブルに向かい合う。
「そういえばあなた、スプーンは使えるの?」
「ふん。舐めるな。貴族の願いを叶えた時に散々練習したわ」
 悪魔は手を人間のものに変身させ、シチューを一口啜った。
「……!」
「ね? 美味しいでしょう?」
 女は悪魔には言わないが、念のため三人分つくっておいてよかった、と思うこととなった。

 □■□

 翌日。空は曇りで、眩しすぎず暗すぎず程よい天気である。
 悪魔お気に入りのシチューはまだ残っているが、食材はほとんど使い切ってしまったので、二人は街へ買い出しに来ていた。
 市場はいつも通り賑わっていた。
「どうもこの格好は好かん」
 楽しくお買い物よ、という名目で荷物持ちに駆り出された悪魔は、人間の格好をしていた。
 女と並んでも違和感のない、落ち着いた服装である。黒髪と赤い目は、悪魔なので変えられなかったが。
「あら、男前よ」
 本当にそう思っているのか、宥めているだけなのか、女はニコニコと言った。一方で値段と量を比べる目と右手は淀みない。
「あと、お花も買っていきましょうか」
 悪魔が持っているカゴには、いつの間にか大量の野菜と肉、そして咳止めが入っていた。
 会計は全てまとめて行える点も、女がこの市場を気に入っている理由である。
 そして、花屋の充実した品揃えもその一つであった。
 背の高い雛壇状の棚に、色とりどりの花が咲き誇っている。
 悪魔は早々に女を見失った。
「迷路かここは……」
 人間の格好でも悪魔の力は使える。女の気配を辿り、悪魔は二つ隣の通路を曲がった。
「いえ、違います」
「−−で−−なので−−−−」
 悪魔は女を見つけたが、その横には男がいた。
 生真面目そうで、ナンパをするようには見えない男だったが、女は眉を下げ明らかに困っていた。 

『困っていたら助け合って』

 悪魔はずんずん二人へ近づくと、女の肩を抱いて引き寄せた。
「妻に何か用か」
 男は突然登場した悪魔に驚いた様子だが、すぐに敬礼をした。
「おや、ご主人でしたか。これは失礼しました。本官は非番の警察であります。
 ご婦人も申し訳ありませんでした。人違いでしたね」
 警察は、女に頭を下げあっさりいなくなった。
「よくわからん人間だったな」
「おまわりさんよ。お休みまでお仕事しなくてもいいのにね。
 ところで、お花はどれがいい?」
「違いがわからん」
 女が花を指差しては、名前と花言葉を教える。
 悪魔は首を傾げるばかりだが、女はなぜかそれを楽しそうに笑った。
 そんな夫婦にしか見えない二人を、警察とは別の少年が食い入るように見つめていた。

 □■□

「ここのところ雨が続いているな」
 窓を濡らす水滴を悪魔は眺めていた。家では人間の格好ではなく、本来の姿でくつろいでいる。
 本日のココアをつくる当番は女である。彼女は鍋で褐色の液体を混ぜていた。
「仕方ないわね。季節の変わり目だから。
 ……あら? 何か頼んでいたかしら」
 呼び鈴が久しぶりに鳴った。
 女の家は郊外にあるので、配達以外は誰も来ない。
 キッチンの小窓から玄関を見ると、いつものベテラン配達員ではなく、同じ制服の年若い少年だった。
「雨の中、気の毒だわ。出てくれる?」
 女が言い終わる前に、人間の姿へ変身した悪魔が玄関へ降り立っていた。そろそろ彼女が咳止めを飲む時間だった。
 夫にしか見えない悪魔が扉を開けると、少年が小箱を濡らさないように抱えていた。
「配達です」
「ご苦労。
 ぬう……!?」
 悪魔が荷物を受け取るが、それは尋常ではない重さで、両手は地面と箱に挟まれた。人間の色をした皮膚が、本来の赤色を剥き出しにさせられる。
「やはり悪魔か」
「貴様……! 悪魔払いか!」
 少年は鞄から一冊の本を取り出し開いた。
 呪文の類での攻撃を予想し、悪魔は箱を蹴飛ばし後退する。
「小賢しい悪魔め」
 本から伸びた小枝のような−−実際、捕獲用の呪文だった−−が悪魔を縛り上げ廊下に転がす。
 少年、改め悪魔払いはずかずかと女の家へ土足で立ち入った。
「善良な市民を殺人鬼にしたのはお前か」
「……何のことだ」
 悪魔はすっかり真の姿にされており、黒い毛と大きな角が現れていた。
 開けっ放しの玄関から冷たい風が吹き込んでくる。
「あの女を唆し、婚約者と親友、家族を皆殺しにした大量殺人鬼にしただろう」
 戯言を、と何の疑いもなく悪魔は言おうとした。
 悪魔払いの身体が傾く。地に伏し、悪魔と同じ目線になる。だが見開かれたままの目は瞬きをしない。
 少年がいた場所に、女が立っていた。その手には、血まみれの包丁が握られていた。
「……貴様は」
 悪魔の声を、激しく咳き込む音が遮った。
 包丁を持っていられなくなった女は膝をつく。彼女の口からは血がこぼれ、背を丸めた身体は壁に力なく寄りかかった。
「おい、薬を飲め!」
「……あれじゃ、本当は治らないのよ」
「ならば願え! これが解ければすぐにでも……!」
 悪魔を拘束する、少年の置き土産はほつれ始めていた。
「いいの……指名手配で病院にもかかれないし…………死ぬだけだったから……」
 女の言葉は、少年が言っていたことを肯定していた。

『困っていたら助け合って、悩みがあったら話を聞く。
 予定が合えば楽しく遊んで、間違っていたら思いやりで諭すの。
 それで、たまに喧嘩をしても殺しあわずに、いつか必ず仲直りするのよ』

「殺したのは、どうしてだ。間違っていたなら直せばいい」
 悪魔が殺人の動機を尋ねるなんて。
 女は思わず笑ってしまった。
「……どうしてだっけかなあ…………忘れちゃった」
 ひどく穏やかな顔で、女は目を閉じた。
 同時に悪魔を縛る呪文が消える。
 病を取り除くために彼女へ伸ばされた赤い腕は、ただ軽くなった身体を支えただけだった。
「ふざけるな! おい、起きろ!」
 悪魔は悪魔らしく恐ろしい形相で女を揺さぶる。
 当然、返事は返ってこなかったが、かわりに丸い光が一つ、悪魔の目の前に浮いていた。
 彼女の魂だった。
 殺人を犯した者の行く先は、地獄のみ。傍には女の魂を飲み込もうとする入り口も開いていた。
「貴様……」
 女にはもう一つの道もあった。彼女もそれを望んでいるのか、悪魔の前に漂っている。
 しかし、悪魔が魂を食らってしまえば、もう女が現世に生を受けることはない。
 悪魔は丸く光る彼女へ手を伸ばした。
「……もう一度会いにくるのだ」
 真っ赤な腕はどす黒く濁った汚れを魂から引き剥がし、地獄の口へ投げ入れた。
 すると、雨雲を突き抜け、天へ続く光が差し込む。
 悪魔は彼女の御霊を光の方に押しやった。
「これは喧嘩だ! 我とお前は喧嘩をした!
 だから生まれ変わって会いに来るのだ!
 仲直りしに来い! それが代償だ!」
 いまや汚れなき魂を、悪魔が傍にいたからか、光が強制的に引き入れた。
 時折振り返るようにゆっくりと魂は天へ昇っていく。
「忘れるな! 仲直りするのだ!」
 目が焼けそうになるが、悪魔は彼女を見送り続けた。
 やがて魂は雲の向こうへ見えなくなり、光も徐々に細くなって消えた。
「……なんということだ……我は呪われてしまった」
 天の光を見続けた悪魔の目は、ひどく痛み涙が止まらなかった。
「あやつの呪いである……玉ねぎの呪いだ……」
 いつの間にか雨は上がっていた。