フェンネル

 花言葉:力量 勇敢 賞賛に値する


「早く! 早く!」
「落ち着いて進め!」
 御島一派が黒の影(ニグレード)の足止めをし、その隙に警備隊が住人と季節の民を城壁の上へ避難させていた。大通り以上の幅がある壁上路から、まだ近いガーデニア側の門へ向かい脱出する算段である。
 しかし影は結界を這ってぐんと伸びていた。
 壁の上へは限られた通路からしか入れない。取り残されかねない不安も手伝い、先頭を急かす生産性の無い悲鳴が飛び交っていた。
 アンカリアは青年の腕を引いた。
「茴香君、しっかり! そこから壁に行って!」
 すぐ後ろに一派の歯軋りを聞きながら、彼女は退路へ茴香を導いた。自分は当然、彼が階段に辿り着くまで時間を稼ぎ、一派と最後に登る覚悟だった。ぐらつき危うい茴香の背を押しやり、手を離そうとした。
 その時、明けなくなった夜空から、耳を刺す泣き声と焚き火のような音が降って来た。
「もうヤダああああああああ」
 宙に浮くみすぼらしい寝間着から、羽の形をした稲妻が生えている。ポールワイスは白髪頭を抱えながら、光る青眼で獲物を物色した。
「どいつもこいつも……ハラ減ったんだよう……」
 滞る長蛇の列など恰好の的である。
 貧相な悪魔は逃げ惑う群れに突っ込んだ。
 アンカリアは咄嗟に走り出した。
「だめっ……伏せて!」
 茴香はそれをぼんやりと眺めていた。
 霧がかかったような他人事の情景。白芷が砂になって消え失せる、悪趣味な夢を見た。これはその続きで、早く起きないかなと飽きている。
 青い瞳が棒立ちの彼を見つける。急接近。捕食者が間際に迫る。青すぎる青。霧が吹き飛ばされる。
(食われる……食われる? 食われる……!
 いやだ!)
 ドッ、と殴られたような音が胸に刺さる。それは自身の心音だった。
 茴香は今更、けたたましい本能の叫びで目を覚ました。
 同時に眩い光が一瞬で視界を塗りつぶす。
「どいて! わたしより下がって!」
 アンカリアが咄嗟に銀色の玉を炸裂させていた。
 ポールワイスの絶叫がパニックと合唱する。
 茴香はその時初めて、自分の浅く速い呼吸に気がついた。どうして今まで無視できたのか不思議なくらい、悲鳴がクリアに聞こえる。住人の恐怖に歪む顔もそれぞれはっきり見えた。
 彼の側で御島一派が苦戦していた。
「当帰(とうき)、しっかりしろ!」
「くっそ……!」
 滅多に折れない依り代の紙が不穏にしなる。一人の結界にニグレードが集中していた。
 そこは、上空で悶絶するポールワイスに最も近かった。
 白髪頭を守ろうとするように、ポールワイスは宙をくるくる回っていた。
「なんなんだよおおおお! あのレインは結局最後まで食えなかったし……」
 それを見上げていたアンカリアは、ある考えを思いつく。身震いしたが、唾と一緒にその感情を飲み下した。彼女は人垣を抜け、結界すれすれに立つ。そして冷たい手でベレー帽を押さえた。
「ポールワイス! 鬼ごっこをしましょう!」
 御島一派も茴香もサイコも、目を点にした。呼びかけられたポールワイスでさえぽかんとしている。
「オニ……?」
「そう、わたしを捕まえられたら食べていいわ!
 ただし、お前も走るのよ! まさか悪魔のくせに出来ないなんて言わないわよね!」
「え、え、走るの? ええ……」
「十数えたら追いかけていいわよ!
 いーち!」
 サイコがとんでもない彼女の思惑を察知するが、すでにアンカリアはガーデニアとは逆の、住民がいない方の門へ駆け出していた。
 影に覆われる寸前のそちらへは、整然としながら迷路のように入り組む路地を通らねばならない。
「なんなんだよ……にー、さーん……さーん、次なんだっけ……ご?
 もういっか……」
 ポールワイスが脱力すれば翼が空に散り、そのまま頭から落下した。激突の寸前に足を振り、膝を抱えた体勢での着地を果たす。その反動をバネに、獣のごとく四肢で地面を蹴った。
 ニグレードがその後を鈍重について行く。
 瞬く間に姿を消したポールワイスに、茴香は血の気が引いていくのを感じた。
(……俺のせいだ!)
 考え無しに追いかけようとした茴香の腕を、白く繊細な手が捕まえた。活発な青年なら振りほどけたかもしれないが、サイコの鋭利な眼光が許さなかった。
「どこに行くつもりや。戻り」
「でもこのままじゃアンが……!」
「お前に出来ることなどあらへん。あの子が命投げ出してつくった時間、無駄にする気なんか!」
 茴香は思わず息を呑んだ。
 サイコの瞳には、怒りに似たものが滾っていた。頭首は最善を選び、“多くの人間”を導かなければならない。選べなかった、捨てざるを得なかった者達への思いは、常磐色の瞳の奥で渦巻くしかない。
 独り言のようにサイコは続けた。
「ぼくらは無力や。悪魔と渡り合えるのは、クチナシだけや」
 彼はレインの少女も、とは言わなかった。
「……そうだな。俺も守られてばっかりだし。ビャクのこと、アンだって落ち込んでたはずなのにさ」
 サイコの手が緩む。
 だが茴香の言葉は、終わってなどいなかった。
「でも、盾くらいなら俺にだってできる」
 サイコが意味を理解し瞠目する頃には、茴香は走り出していた。
「待ちや! 茴香!」
 空気を切り裂くような怒声に、普段の茴香なら身を竦ませていただろう。しかし彼は、あっという間に無人の街へ消えてしまった。
 捕まえ損ねた彼を、サイコは見送ることしかできなかった。指の隙間から零れ落ちた砂は、一つ一つ拾ってなどいられない。頭首は拳を握りしめた。爪が食い込んで皮膚を破り、真っ赤な血が滲んだ。


 無人の町を全力疾走するアンカリアは、限界を迎えていた。
(耳鳴りが酷い。酸欠にもなってるわ)
 彼女はもつれそうになる足を叱咤する。頭の片隅は妙に冷静だった。大きく開いた口からの呼吸が、他人事のようにうるさかった。
(一秒でも立ち止まれば二度と走れない。せめて壁上路まで誘き寄せれば……!)
 整備された道は、法則が読めなければ逆に複雑を極める。それが幸いしたのか、まだ近くにポールワイスの気配は無い。だが結界を這う黒い影が、彼女へ着実に迫る“鬼”を示唆していた。
 それを絶妙な距離で撒きながら、アンカリアは非常用の階段を駆け上がる。
 板が積み上がっただけのようにスカスカのそれは、入った時にくぐった門の横で螺旋を描いていた。
(しまった。壁上路に上がる通路があっち側だなんて)
 目が回りそうになりながらも、しばらく登ると踊り場になり、反対側への橋が閂(かんぬき)のように伸びていた。橋の足元は頼りない金属の板で、柵は申し訳程度の細い棒だった。
 一刻も早く、壁上路への通路がある逆サイドへ渡りたい。
 しかし、人の頭が点になる高さに、つい彼女は足を止めてしまった。風が下から煽り、腿の裏から後頭部までを舐めるような悪寒が走った。
「ハーッ……ハーッ……」
 小さく鳴る歯をがちりと噛み、彼女は橋を駆け抜ける。幅は充分にあるにも関わらず、感覚的に踏み外しそうになった。
 長い、長いそこをようやく渡り切れば、壁上路へ続く階段があり——そこに白い塊がうずくまっていた。
「ちゃ、ちゃんと走ったよ……つかまえたら、食べていいんだよね……」
 ポールワイスが階段を塞ぐように座り込んでいた。貧相な背中には何も無い。ルールに則り、悪魔は分厚い城門を“走って”来ただけだった。
 それをじっと見すえたアンカリアは身じろぎすらしない。
 悪魔の背後で、階段のランプがカウントダウンのように一つ二つと消えていた。
「う、ひ、いただきま……うがあああおおお!?」
 ポールワイスの絶叫は口に何か押し付けられたようにくぐもった。
 黒の影(ニグレード)が階段を流れ落ち、また城壁を這い上がって挟み撃ちにしたのだった。粘着質な黒が白い悪魔を頭から閉じ込める。抵抗の一切を許さない締めつけが、ポールワイスの首を折った。
 アンカリアは、悪魔の頭から病的に細い指先までが影へ消えるのを睨みつけていた。
 ポールワイスがうめき声ごと飲み込まれていく。
「うぐ……むご……ぐ…………」
 全て見届けると彼女はその場に膝、そして両手をついた。汗と震えが止まらない。この場の高さなど気にもならなかった。
 しかし次の瞬間、首の圧迫感と背中の痛み、全身への衝撃に襲われた。
 アンカリアの眼前に、落窪んだ青い瞳が光っていた。
「ま、おま、おまえっハメたなああああ」
 顎の骨を露出しているポールワイスの後ろで、黒の影(ニグレード)が壁から崩れ落ちていた。壁上路への階段が、決死の思いで渡った橋の向こう側にあった。
 アンカリアは最初に階段を上がって来た踊り場で、首を絞められていた。
(こいつ、一瞬で門を跳んだ……!)
 その身を千切らせながら脱出したポールワイスは、アンカリアの首を掴み、勢いのまま門を飛び越して踊り場に叩きつけたのだった。
 気道を潰す手に、彼女は必死で爪を立てる。鬱血したのか顔が暑く、酸素を求める視界がチカチカしていた。
(カズラに聞いておけばよかった。なんで殺したのって……。
 もし記憶が残ったまま蘇れたら……未練って関係あるのかしら……)
 縁起でもない弱気な後悔が次々と涌いてくる。
 彼女が使い物にならない目をぎゅっと瞑った時、なぜかポールワイスの力が無くなった。アンカリアはいきなり与えられた呼吸に噎せる。彼女の背中を熱い掌が支えて起こした。
「アン! しっかりしろ!」
 少女の視界を彩ったのはオレンジ色のくせっ毛ではなく、灼熱の赤い髪。意思を取り戻した金色の瞳が、彼女を覗き込んでいた。
「…………茴香君?」
 アンカリアがハッとポールワイスを探せば、白の悪魔は空中で顔を、主に顎を押さえてひいひい言っていた。
「いたいよおおお……かっ顔、蹴るとかひどいよおおお……」
 アンカリアを支えながら、茴香はそっと耳打ちをした。
「ごめん。
 あんなおっかない連中と戦ってたんだな。俺、なんにもわかってなかった」
 彼はポールワイスから目を離さず続けた。
「悪魔に狙われた時ぞっとした。すげえ怖かった。アンやカズラさんがいなかったら、俺は死んでいたし、ビャクがああなっていた。
 それなのに全部押し付けて、お前らのせいみたいに思って……本当にごめん。
 俺達を助けてくれて、ありがとう」
「…………うん!」
 アンカリアの内で、幾つもの感情が我先にとこみ上げる。だが結局うまく言葉にはできなかった。吹き上げるものとはまた別の、暖かい風が彼女を包んだ。
 茴香は一度アンカリアへ笑いかけ、悪魔を真っ向から睨みつけた。
「……喧嘩弱そうだな。折っちまうぞ」
「いっ? ひぃいいいい!」
 実力的には圧倒的に有利なはずのポールワイスは、先程の一撃がよほど応えているのか、茴香へ近づこうとはしない。しかし獲物への執着からか、逃げもしなかった。
 茴香は悪魔を睨んだまま立ち上がる。
(どうにか俺で追い払えねえかな。
 チャンスは一回。ガタイなら負けてねえから、食らいつかれた瞬間に……)
 彼はアンカリアを庇うように一歩前へ出た。
「アン、作戦とかある?」
「え?」
「俺を使って。少しの間なら押さえつける。
 大怪我くらいならセーフだろ」
 いつ悪魔に飛びかかられても良いように、茴香は腰を落として身構える。
 当のポールワイスはまだ宙で丸まりぶつぶつ文句を言っているが、恨めしげな瞳はこっそりと茴香へ向けられていた。
「おまえなんなんだよお……」
「あ?」
「うっ…………ひぇえ……うう……」
 茴香は死を恐れていないわけではない。だがそれ以外は恐れていなかった。力強い金色の瞳は悪魔を圧倒していた。
 アンカリアは、ほぼ捨て身で盾となっている茴香のためにも、必死で頭を働かせる。
 その時、彼女のすぐ背後で何かが着地したような軽い音がした。
 振り返ったアンカリアの眼前に深い緑色の布が広がる。
 それは外套で、背の高い何者かがフードをかぶって立っていた。全身をすっぽり覆う外套には、目玉を模した臙脂色の刺繍が大きく施されていた。
 フードが雑に降ろされると、青い髪の男が軽薄な笑みを浮かべていた。
「人気者じゃねえか、アン」
 精悍な顔は雄々しい部類に入るが暑苦しさは無く、爽やかな青い瞳は光っていた。
 誰よりも先に悲鳴を上げたのは、同じ悪魔であるはずのポールワイスだった。
「ひ、ひ、東のマクスウェル……!? なんでなんでここに、えっ、ひいっ」
 マクスウェルが片手を腰へ当てただけで身を揺らす始末。一挙一動、瞬きにさえも怯えているようだった。
「よおポールワイス、いつ振りだろうな。
 悪いんだけど、この嬢ちゃんオレのエモノなんだわ」
「え……でも、さっき」
 もごもごと言葉を濁すポールワイスに、マクスウェルの口はニッと弧を描いた。さも可笑しそうに真っ白い歯を覗かせるが、青く光る瞳は反論を全く許していなかった。
「どーしてもっつーんなら、相手するけど?」
 アンカリアは、夏の民が居るにも関わらず、気温が一気に下がったように感じた。肺を直接潰されたような錯覚に陥る。ついさっき首を絞められたはずだが、それよりずっと息苦しく、冷たい汗が流れた。
 ポールワイスもたまらず、空中で地団駄を踏み、頭を掻きむしった。
「…………ううううなんだよ、なんなんだよ!
 どいつもこいつも! くっそ!」
 直後の突風に人間達は目を瞑る。次に開いた時には、くたびれた白い悪魔は跡形も無かった。
 思わず一息ついた茴香を、第二の脅威が覗き込んだ。
「レインかと思ったんだけど、オマエ季節の民だろ。根性あるなあ」
「うわあ!?」
 いつの間にか接近していたマクスウェルに、茴香は身を仰け反らせた。
 青い髪の悪魔は不安定な細い柵の上に平然としゃがんでいた。大きな鳥のように、外套の深緑色がはためく。
 ゆっくり立ち上がったアンカリアは、打って変わって落ち着いていた。
「マクスウェル……」
 茴香は少女と悪魔を交互に見やるしかなかった。
 マクスウェルの瞳は柔らかく細められ、アンカリアしか映していなかった。
「そんな構えるなって。
 あいつ、悪食のポールワイスっつって、オレ達の間でも有名なんだよ。
 んな奴の近くにアンがいるって聞いて飛んで来たわけ。オレ優しくない?」
 戯けてみせたマクスウェルは自らの膝に頬杖をついた。
 アンカリアの眉間に皺が寄る。
「……あなたは」
 それは彼女が口を開くとほぼ同時だった。
 茴香が首を傾げる。
「なんでアンの居場所を知ってたんだ?」
 ハッとするアンカリア、目を点にしたマクスウェル。
 風だけが動く沈黙の中、マクスウェルの視線は徐々にあらぬ方向へ泳いでいった。
「……んーとまあ、なんだ。秘密。
 ほら、お迎えだぜ。さすがにあいつの相手はしたくねえ」
 外套を翻してマクスウェルが後方へ跳ぶ。
 その直後、伸び上がって来た光の結界が、突き刺さんばかりの勢いで悪魔と人間を分断した。
「じゃーな、アン。オレ以外に食われんなよ」
 城壁の見張り台へ移っていたマクスウェルが軽く手を振る。
 風を受けた緑の外套が広がり、姿を消した。


 どうにか生き延びたアンカリアと茴香は、下りの方がよっぽど恐ろしい階段を使い、地上へ降りた。
 茴香はついさっきまでいた門を見上げる。
「よくあんなトコ登れたな……」
 一方で身を硬くしたアンカリアが、彼を肘でつついた。
 階段を降りた先に、サイコが札を片手に佇んでいた。
「…………怪我は」
 先ほどマクスウェルを追い払ったのは彼だった。元からつり上がっているが、瞳は恐ろしいほど静かで、普段の雰囲気は微塵もない。
 えげつないほど鋭い眼光に正面から見据えられ、二人は思わず姿勢を正した。
 咄嗟にアンカリアが苦しい言い訳をする。
「ひ、ひどいものはない、です……」
「同じく……」
 疑いの眼差しが、彼らの頭頂部からつま先まで余す所無く向けられる。
 青ざめた茴香は硬直したまま小声で呟いた。
「やべえ、かつてないほど怒ってる」
「見たらわかるわよ」
 サイコは札を袖へしまい、するすると二人へ近寄った。
「舌、噛まんようにせえよ」
 そして茴香は久々の、アンカリアは初の華麗な拳骨を頭頂部にくらった。二人は声にならない悲鳴をあげ痛みに震えた。
 涙ぐむ子ども達を余所にサイコは自分の額を押さえた。
「……わかっとる、任務やってわかっとる。助けに行くんも間違ってなんかあらへん……けどな。
 ぼくかて、参ることはあるんよ」
 そう言って長く、長く息を吐き出したサイコに、二人は顔を見合わせた。アンカリアは彼の白い手をとり、茴香は肩を叩く。挙げ句の果てに珍しい、と笑い出す始末だった。
 サイコはもう一発お見舞いしようかと考えたが、腕に力が入らなかった。声も震え、掠れていた。
「ほんまに、よう無事で」