スノードロップ

 花言葉:希望  慰め あなたの死を望みます


 しんと暗い物置部屋の隅で、若い娘が震えていた。
 荒れた手が握りしめる小瓶には、ガラス片がぎっしりと詰まっている。
「神よ……我等が父よ……」

 今宵は“教会”でミサがあった。
 信心深い彼女は、遅れながらも祈りを捧げるために仕事場から走って来た。息を切らしながら、明るく誰もいないロビーを抜け、礼拝堂の戸をそっと押した。
 その時、違和感に気付いた。
 ミサで読まれる神の御言葉が聞こえないのだ。さらになんだか異臭もする。
 彼女は不思議に思いつつも、中を覗き見た。
 そしてその光景に息を呑んだ。悲鳴を上げそうになった口を押さえ、扉を閉じる。後ずさると、よりによって床が軋んだ。
 礼拝堂から、何かが這う音がした。それは徐々に娘へ近づいて来ていた。
 彼女は咄嗟に駆け出し、物置部屋に身を隠した。

 この町で、小瓶は信仰心の象徴だった。落ちているガラス片は神の導きで、それを多く拾い集めれば加護が得られると、言われていた。
 娘は誰よりも熱心にガラス片を集めていた。
 物置で震える彼女は、小瓶を両手で握り、目を固く瞑っていた。
 信心深い子羊を神は見捨てるはずがない。
 そう自分に言い聞かせて、御言葉を頭の中で繰り返す。だが、礼拝堂の惨状がどうやっても瞼から離れなかった。
 娘の“兄弟”も“神父様”も、白目を剥いてバラバラになっていた。誰、と判別できたのはその数人だけ。
 薄暗い礼拝堂、無数に転がる持ち主不明の手足、その奥で不気味に光る青い目。
 娘は今になって血腥さを思い出し、喉を押し上げる吐き気を覚えた。
 その時、物置の戸がゆっくり、嫌な音を立てて開かれた。
 バッと口を押さえた娘の心臓は早鐘を打ち、もはや頭の中には御言葉など浮かばない。
 扉の奥、暗闇からだった。
「ちょっと! 誰か、いたら返事して!」
 聞こえたその声は、女とも男ともとれるハスキーなものだった。蝋燭を掲げているのか、入り口もぼんやりと明るくなる。
「生存者、ゼロか……」
 残念そうな声と共に光が小さくなっていき、途切れた。
 娘はしばらくしてから、落ち込んだ言葉の意味を理解した。
(神様……!)
 助けが来たのだ。学の無い自分はよく覚えていないが、使徒様が何とかという武器で、悪魔を討ち倒してくださったのだ。信仰の厚い自分を、神は見捨てなかったのだ。
 彼女は安堵で涙した。
「こっ、ここにおります!」
 そして勢いよく立ち上がり、物置の戸を開け放った。
「なぁーんだ、いるんじゃない」
 彼女の目前には、歪んだ青い瞳が光っていた。


 □■□


 夜が明けなくなり、人々は食糧難と、病と、異形のモノに生命を脅かされていた。
 異形のモノ、すなわち悪魔はどこからともなく現れ、命を貪り去っていくと言われていた。
 
 ——人が消える町には、悪魔が潜んでいる。

 そんな噂がまことしやかに流れ、住人は窓も戸も厳重に閉ざした。
 そのせいでこの町、プリム町はおそろしく静かだった。
 白っぽい壁の似たような家屋がずらりと建ち並び、その間に石畳が敷かれている。冷え込んだ町には霧が出ていおり、それぞれの玄関にかけられた松明を、気休めと嘲笑うように滲ませた。
 誰もいないような町にテンポの違う足音が響き、やがて体格差のある二つの影が浮かび上がった。
 濃霧に迷うことなく突き進む彼らは、どちらも重そうな黒いマントで、足首まで身を包んでいる。花を模した揃いのブローチは、冴えた銀色をしていた。
 やがて彼らは町の中でも特に立派な屋敷へ辿り着いた。細かい装飾はともかく、この酷い視界でもわかるほどに広い家だった。
 そこの玄関の松明に照らされ、ようやく二人が小柄な少女と背の高い男だったことがわかる。
 少女は箱のように角ばった鞄を地面へ置き、よく磨かれた扉を数回叩いた。
「対悪魔機関ガーデニアから参りました。ルビーの使徒、アンカリアと申します」
 緊張を含みながらも凛と名乗った彼女は、肩までの煉瓦色の髪に、黒いベレー帽をかぶっていた。まだあどけない顔立ちだが、黒い瞳の奥には使命感を宿らせている。
 すると間を置かず、解錠の音が大げさに鳴り、扉が外へ向かって勢い良く開かれた。
 鈍い衝突音と共に、中から金髪の娘が飛び出した。
「使徒様……! ようこそいらっしゃいました! あら……?」
 歓迎の声を上げるその娘は、バイオレットの目を点にした。
 “使徒様”であるアンカリアは額を押さえ仰け反っており、後ろにいた仲間の男に支えられていた。帽子は冷たいアプローチに落ちている。
 娘は首を傾げた。
「はて……? どうなさいました?」
「い、いえ。なんでも」
「そうですか? では、どうぞ。お待ちしておりました」
 娘は暖められた屋敷へ、客人を招いた。
 アンカリアは赤くなった額をさすり、ベレー帽とケースを拾い上げた。数回帽子をはたいてかぶり直し、娘に続く。
 もう一人の男は後ろを振り返ってから、入り口をくぐった。


「町長、使徒様をお連れしました」
 アンカリア達を案内した娘は、すっと壁に控えた。
 その部屋は暖色の壁紙とシャンデリアで明るく、かつての昼間のようだった。中心に低いテーブルがあり、四つの長いソファがそれを囲んでいた。
 一番奥のソファに、主人らしき壮年の男が座っていた。彼はアンカリア達を見るとゆっくり、杖を頼りに立ち上がった。白髪と痩せこけた頬、細すぎる体躯が、より年齢を増して見せた。
「ようこそおいで下さいました、使徒様。私は町の長を勤めております、ジェンゾと申します」
「ルビーの使徒、アンカリアと申します。こちらは見習いで……その、口がきけなくて」
 アンカリアは帽子を外し、眉を下げた。
 一方、紹介された見習いは無表情のまま、微動だにしなかった。しかし彼は、愛想の悪さを補って有り余る容姿をしていた。
 すらりとした長身にオレンジ色のくせ毛、端整な顔つき。恵まれた美貌の中で特に目を惹くのは、刺すような暗さを孕むブラウンの瞳だった。人嫌いのような凍てついた雰囲気が、図らずも洗練に魅せ、町で女性に声をかけられるのも珍しくなかった。
 町長ジェンゾは、頭も下げない見習いに気分を害することなく、温かな笑みを向けた。
「お気になさらずに、使徒様。このような辺境の町にも救いの手を差し伸べて下さるのです。感謝をしてもしきれません。
 どうぞ、おかけ下さい。マントもお預かりしましょう」
「失礼します。ああ、これは大丈夫です」
 預けずに外套を脱いだ二人は、インナーも裏切らず黒尽くめだった。アンカリアは無地のワンピースにタイツ、見習いはぴったりしたハイネックに長ズボン、とシンプルで肌の出ない服装だった。
 ジェンゾの言葉に息をついたアンカリアは、用意されたソファへ腰を降ろす。
 見習いもその隣に座った。
 来客用のソファはふかふかで、立ち上がるのが億劫になりそうな上物だった。アンカリアは、寛ぎそうになった自分を慌てて律した。
「早速ですが、ジェンゾさん。報告は受けていたのですが」
「ええ。行方不明者が続出しています。使いを出した後もまた……。
 今は、私達が当番制で食料配達と連絡をしてまわり、皆には家から出ないように言ってあります。静かだったでしょう? 皆も怯えてしまって」
 ジェンゾの皺がさらに深く刻まれた。
 ここまで大量に行方不明者が出れば、悪魔の関与は確実だった。だからこそアンカリア達へ任務が与えられたのだった。
 アンカリアは再び姿勢を正す。
「心中お察しいたします。一刻も早く悪魔を退治し、町に平和を」
「使徒様、どうか……」
 その時、けたたましく扉が開かれた。
「どーだかな! うさんくせえ!」
 葬式然とした部屋を打ち破るように、威勢良く子どもが入って来た。ジェンゾと同じ、白髪の少年だった。扉の向こうで立ち聞きしていたらしい。
 壁で待機していた娘も、ぎょっとしている。
 ジェンゾは、乱入してきた息子を怒鳴りつけた。
「ウィン! 使徒様の前で何を言う!」
「パパだって何を言ってんだよ! 使徒サマが悪魔を倒せるって証拠がどこにあるんだよ! だいたいこいつらが悪魔かもしれないじゃないか!」
 すると、見習いが音もなく席を立った。そして一歩ずつ、ウィンに近づいていく。
「な……なんだよ!」
 異様な圧力を背負った彼に少年は思わず後ずさる。しかし果敢にも、足が震えていたが、噛み付いてみせた。
「悪魔をやっつけれるのが、そっ、そんなに偉いかよ! こんだけ人がいなくなってから来て……わかったぞ! おまえらが悪魔と手を組んでるんだろ!」
 見習いはウィンの目をじっと見つめ続けていた。見習いの瞳の奥に潜む闇が、狂気となって相手の奥底を物色しようとする。その威圧感で、追い込むようにウィンを後ずさりさせ続けた。
 やがてウィンは部屋の外まで後退させられる。
 ジェンゾも顔面を蒼白にした、その時だった。
「カズラ」
 アンカリアの呼びかけを合図に、見習いことカズラは少年を廊下に残して、扉を閉めた。
 彼女は物騒な閉め出し方を視線で咎めるが、彼は素知らぬ風でソファへ戻った。
 ジェンゾは我へ返ると、膝に手をつき深々と頭を下げた。
「失礼いたしました、うちの愚息が……」
「いいえ。そう思うのも無理ありませんから。こちらも申し訳ありません」
 アンカリアの言葉にジェンゾは肩の力を抜いた。
「長旅でお疲れでございましょう。まずはごゆるりとお休みください。この屋敷と使用人はお好きにして頂いて構いません。
 マリア、ご案内を」
「はい」
 アンカリア達を案内した娘はマリアという名だった。彼女は応接室の扉を開くと、廊下を見回してから客人を振り返った。
「こちらへ、どうぞ」


 長い廊下には、落ち着いたワイン色の絨毯が敷かれていた。先程の一室よりは照明が落ちているが、充分に明るい。
 金髪の娘マリアは、制服である黒いメイド服を着ていた。長袖で、スカートは足首まである。露出が無く清純な服装が、かえって彼女の豊満な肉体を強調していた。顔立ちはどちらかというと幼く、バイオレットの瞳は長い睫毛に縁取られている。
 さらに、案内をしながら他愛もない話もできる、気立ての良い娘だった。
「私はずっとこの屋敷で、使用人として働いているんです。町長は、私のように身寄りのない者にも、生きる道を与えてくださっているんです」
「そうだったんですか」
 もっとも、受け答えはアンカリアしかしていなかったが。
「本当はもっと活気のある町だったんですよ。質素ですけど、収穫祭があったり、週末はみんなでガラスを集めたり……」
「ガラス?」
「ええ。集めれば神の加護を得られると。バカらしいですよね。……わたくしの妹も、大変熱心でした」
「妹さんは、もしかして」
 アンカリアの問いに、マリアの瞳が伏せられた。
「行方不明になってしまって」
「そうでしたか……あの、最後に妹さんが行った場所ってわかります?」
「たしか、教会のミサに」
「教会……」
「この地に古くから残る建物です。郊外にあって、お祭りやミサなどはそこで行います。人々の心の支えを失わないようにと、町長が管理してくださっているんです。
 ああ、お部屋はこちらになります」
 客間は二階にあり、応接室のように明るかった。ベッドや窓も大きく、二人で過ごすには広いくらいだ。
「それでは使徒様、ご入用の際はそちらのベルを鳴らしてくださいませ。私共にお手伝いできることは、何なりとお申し付けください」
 恭しく一礼したマリアが下がり、アンカリアとカズラは顔を見合わせた。
「……普通に、同じ部屋にされたね。まあ、いつものことだけど」
 カズラが視線をやや下げると、アンカリアは真っ赤になってクッションを投げ付けた。
「どうせ、マリアさんみたいじゃないわよ!」
 彼は飄々と避けると、ぴたりと動きを止めた。ブラウンの瞳は入り口に向いている。カズラが扉を手前に引けば、白髪の少年が転がり込んだ。
「おわっ!」
「……えっと、ウィン君?」
 ウィンは急いで立ち上がると二人を睨みつけた。片手には太い木の棒を携えている。
「なんでオレがいるってわかったんだ! やっぱり悪魔だからか!」
 ウィンはカズラがトラウマになったのか、やたらとアンカリアにだけ突っ掛かった。
 彼女は屈んで視線を合わせた。
「わたしはアンカリア、アンって呼んで。あっちは見習いのカズラ」
「知ってらー!」
 ウィンは木の棒をアンカリアへ突きつけるが、彼女は気にせず続けた。
「教会の場所、教えてもらってもいい? きっと神聖な場所だよね。わたしが悪魔だったらきっと入れないよなあ」
「そうやってオレをおびき出すつもりか! その手には乗らないぞ!」
「カズラはどうする?」
「聞けー!」
 カズラはもぞもぞと長身をベッドにもぐり込ませた。純白のシーツは膨らんだきり、一ミリも動かなくなった。
「じゃあわたしだけだね。それなら怖くないでしょ?」
「だっ、だーれがお前なんか!」
「いってくるね、カズラ」
 アンカリアは、少し出掛けるにしては大きいケースを持ち上げた。そして煉瓦色の髪にベレーを乗せると、半ば強引にウィンを引っぱって行った。
 気遣いなく扉が閉められ、部屋に静寂が訪れる。騒々しさが去ってからも、照明は付けっぱなしだった。
 寝息すら聞こえない部屋で、カズラはのそりと身を起こす。彼の体格でも余裕のあるベッドを抜け出し、チェストの呼び鈴を鳴らした。
「…………」
 何度かそれを試した彼は、窓を開けた。
 震えそうな冷気が、室内の心地よい温度を侵略する。
 カズラは窓枠に足をかけた。


 郊外にひっそりと佇む教会は、ジェンゾの屋敷ほど華やかではないが、彼の手が加わっているとわかる建物だった。古びているが丁寧に掃除されており、壁一面の灯りが柔らかく内部を照らしている。
 天井に器具は無いが、遥か昔の青空が描かれていた。今やこの街では見ることの叶わない、果てしない青と自由な雲。クリーム色の壁紙と共に、太陽の光が降り注いでいるような錯覚に陥った。
 アンカリアは思わず見入っていた。
「きれい……」
「だろ! 町中のみんなの自慢なんだぜ!
 ていうか、ほんとに悪魔じゃなかったんだな」
 ごめん、とウィンが小さく呟く。
 アンカリアは、彼の子どもらしさについ笑ってしまった。
「いいよ。よく言われるから」
「うん……。アンねーちゃん、悪魔をやっつけてくれるの?」
「もちろん。マリアさんの妹さんみたいな犠牲者は、もう出さない」
 頼もしく頷いたアンカリアに、ウィンが首を傾げた。
「マリアねーちゃん、妹いたっけ?」
 その時、教会の扉が乱暴に開いた。
「ウィンぼっちゃま、お逃げください! その者は悪魔です!」
 マリアが息を切らし、ふくよかな胸を上下させていた。彼女はガラスの詰まった小瓶を手にしている。
 アンカリアは真っ先にウィンの肩を掴んだ。
 状況がわからず、彼はその手とマリアを交互に忙しなく見やっていた。
「マリアさん、どうしてウィン君を助けに来たんですか?」
 素朴な疑問のように尋ねながら、アンカリアは射抜くような瞳をしていた。
 マリアはたじろぎながらも小瓶を掲げ、じりじり近寄る。
「そんなことより、ぼっちゃまを……!」
「答えて下されば解放します。それとも答えられませんか」
「……それが私の使命だからです! さあ、ぼっちゃまを!」
 アンカリアの声は低くなり、黒い瞳がさらに鋭くなった。
「誰に命ぜられたんですか? 一介の住民であるあなたに、誰が悪魔退治を? あなたの“気持ち”を聞いているんです」
 マリアは言葉に詰まる。
 アンカリアはウィンを背中に隠し、下向きに握った拳をマリアへまっすぐ突き出した。
 そして開かれた彼女の手から落ちたのは、卵大の小さな銀の玉。
「答えられませんよね。だって、その言葉は記憶を頼りに並べただけのもの。
 お前はマリアさんのフリをした悪魔だから!」
 言い終わると同時に割れた玉から、目が眩むほど強烈な光が弾き出された。明るい部屋がさらに照らされる。
 日光が止むと、マリアは開け放たれた扉の外にいた。
 ウィンは我が目を疑った。思わずアンカリアのワンピースを掴む。
「うそだろ……マリアねーちゃん……」
 マリアの身体から、黒く禍々しい腕が何本も生えていた。腕というのは形だけで、異様に長いものや、蜘蛛の足のように先端が尖ったものもある。それらの一部が溶けて煙をあげていた。
 マリアだったものは、口元を歪めた。バイオレットの瞳が発光していた。
「それが“クチナシ”かしら? まさかね。その程度なら恐るるに足らずってところだわ」
 自ら光を発する瞳は、悪魔の証拠だった。
 悪魔は、日光か、特殊な武器でのみ滅することができる。クチナシとは、夜が明けなくなった世界で唯一、悪魔に対抗できるものと言われていた。
 アンカリアは、しがみついてくるウィンの手に自分のものを重ねた。
「本当のマリアさんは、どうしたの」
「……助けてください、私、こんなことしたくない!」
 異形の腕が震え、か細い声でマリアは金髪を振り乱した。
 アンカリアの手からわずかに力が抜けた時、ウィンが走り出していた。
「マリアねーちゃん!」
「行っちゃダメ! ウィン君!」
 その瞬間、悪魔の黒い腕が彼を簡単に掬い上げた。溶けたはずの腕が再生していた。その奥から鋭い触手が何本も飛び出し、アンカリアを狙う。
 アンカリアはケースを盾にし、悪魔の腕をどうにか防いだ。そして銀の玉をぶつけ、四方から迫るそれをかろうじて退けていた。
 マリアの顔をしたものは下衆な笑いを貼付けていた。
「なあんて。使徒、オマエも隙ができたね。あんな三文芝居に引っ掛かるなんて、甘いなあ」
 悪魔はウィンを頭上に高々と掲げ、締め上げた。
「う……ぁああああ!」 
 少年の小さな身体は、一度大きく跳ねるとぐったりとしてしまった。
 アンカリアの瞳が見開かれる。そして唇を戦慄かせ、何かを呟いた。
 悪魔は悦に入った声を上げた。
「んん? なにかしら。命乞いなら聞こえないわあ!」
 数が増え、細くなった触手が一斉に発射された。一本一本が鋭利で銀の玉では防ぎ切れない。
 だがアンカリアの瞳には、絶望どころか、消える事のない信念の炎が燃え上がっていた。そして襲いかかる闇を薙ぎ払うように叫んだ。
「Gambir iubeo Ramulus 鼓動を解け!」
 世界が終わるような轟音と共に、教会の空が落ちて来た。
 悪魔の腕や触手は、砕けた青に混ざる何かで全て真っ二つにされた。さらに崩落の衝撃で暴風が巻き起こる。
 今度はマリアだった悪魔が、目を見開く番だった。
「見習い……!?」
 砂埃にオレンジ色のくせ毛が紛れていた。
「その設定、心外だ」
 話せないはずのカズラの声は、見目に相応しく、低さと甘さを兼ね備えたものだった。
 彼は床にめり込んだ黒い物体を軽々と持ち上げる。
 物体は、彼自身より大きな漆黒の剣だった。剣は全体が真っ黒で、鍔や刃の根元から植物のように湾曲した釣りがねが生えていた。
 カズラはそれで埃の膜を切り裂くと、先端を悪魔へ向けた。
 新手を馬鹿力と罵る前に、悪魔はふと首を傾げる。
「口がきけないはずでは……」
「あんな三文芝居に引っ掛かるなんて、甘いなあ」
「オマエ……!」
 嘲笑うカズラに、マリアだった美しい顔は醜く歪曲した。
 憤慨した悪魔はがむしゃらに触手を打ち付ける。
 だがカズラは、大剣とは思えない軽快さでそれらを切り捌いた。さらに軽口まで叩いてみせた。
「残念だよ、好みのスタイルしてたのに」
「あらあらそれは……」
 悪魔の腕の本数が減っていた。
 カズラが気付くと同時に、足元から彼の喉元めがけて、腕が幾つも噴き出した。
「残念ねえ!」
 悪魔は高笑いが響いた。
 カズラは間一髪で全てを避け、しつこく迫る黒い腕を剣で斬り倒した。
 その時、彼の背中へ強烈な感覚が走る。電気、と理解した時には剣を弾かれ、自身も壁に叩き付けられていた。尋常でない速度でぶつかり、瓦礫に埋まったカズラは動かなくなった。
 悪魔は、床に転がった黒い剣をとると、もの珍しげに眺めた。熱いものに触れるように、刀身を数回叩く。意識の無いウィンは捕まえたままだった。
「これが“クチナシ”ねえ……初めて見たけど、よくこんなので倒せると思ったわね」
 悪魔は剥き出しの地盤へ剣を突き刺し、無理矢理手前に引く。最初はしなっていた大剣が、負荷に耐え切れず二つに折れた。残骸は黒い粉となり霧散していった。
「切り札も無くなっちゃったけど、どうする?」
 悪魔はアンカリアを振り返った。
 彼女の黒い瞳は絶望も見せずに、悪魔を睨み上げていた。アンカリアのまわりを、銀の玉が衛星のように旋回している。彼女は分厚い本を片手で開いていた。
 だがそのページは、起死回生の呪文などが書いてあるわけでもなく、白紙。
 その姿に、悪魔は背筋を粟立たせて興奮した。
「いいわ。最後まで足掻く子、だあいすき」
 腕で自由を奪い、触手で串刺しにしてしまおう。そして死なない程度の電気を流して嬲る。
 悪魔は獲物の最期を想像し、マリアの身体を火照らせた。ウィンをうっかり握り潰してしまいそうになる。
 アンカリアは悪魔に正面から突っ込んだ。そして掴み掛かってくる腕達を避けず、銀の衛星を一カ所に飛ばした。
 狙いはウィンを掴んでいる腕だった。連続して日光を浴びたそれはもげ、思惑通りに少年は解放された。しかし当然のように重力で落下する。
 それを受け止めようとしたアンカリアは、入れ替わりで捕らえられた。
 本が白紙を晒したまま、彼女の足元へ転がった。
 悪魔は隠し切れない愉悦に顔を崩す。
「使徒サマったら、健気!」
「あっあ、ああ、あ……あああ! ぐ、ぅっ……うあっ」
 アンカリアを、意識をぎりぎり飛ばさない程度の断続的な電流が襲う。煉瓦色の髪は力なく項垂れ、ベレー帽がずり落ちた。
 悪魔は、声を出さなくなった獲物を覗き込む。光る紫の目は爛々としていた。
「あらあらもうおしまい? つまんないわ」
 直後、世界が回転した。
 悪魔の視界が、青い瓦礫に占められる。獲物を嬲っていた腕と、下半身の感覚がなかった。肩を何かで押され仰向けになる。
 オレンジ色の髪と、汚物を見るような瞳があった。
 そこで初めて、悪魔は身体を真っ二つにされ地面に転がっていると理解した。
「積極的過ぎるのは、タイプじゃないな」
 カズラが、折れたはずの剣を悪魔へ向けていた。即死する勢いで投げ飛ばされたはずだが、彼の身体は健全そのもの。悪魔を見下ろすブラウンの瞳は、明るすぎる教会ではわからなかったが、金の光を帯びていた。
 アンカリアは彼の後ろで座り込み、噎せていた。
「……殺したつもりだったんだけど。“クチナシ”使いは不死身なのかしら」
 一方のマリアの身体は、切断面で触手と同じ黒い繊維が回復を急いでいた。だが悪魔は、悪魔より冷たい眼差しの男が待ってくれないだろうと、本能的に理解していた。
「クチナシは武器じゃない。悪魔に殺された人間だ。お前達を根絶やしにするまで、何度でも蘇る」
 そう言うとカズラは、悪魔の胸に剣を突き立てた。
 刀身の漆黒が液体のように揺らぐ。それが波立つ度に、悪魔の禍々しい腕や触手は砂となっていった。
 剣を満たしているのは中間物質、通称デミという、悪魔を滅ぼす物質だった。
 悪魔に殺された人間は、一部、蘇ることがある。そのような人間であり悪魔である状態を保持しているのがクチナシであり、彼らの体内にのみ中間物質は生じる。
 中間物質は悪魔を人間に、人間を悪魔に変える性質を持っていた。クチナシは武器を介して中間物質を悪魔へ流し込み、退魔を行う。
 あっという間に、マリアの姿をした悪魔は鼻先まで黒い砂となっていた。残されたバイオレットの瞳が、存在の消滅と共に光を失っていく。
「……滅びろ、悪魔」
 カズラが捧げたのは憎悪にまみれた声だった。


 崩壊した天井から吹き込む風が、ただの灰となった悪魔を散らした。教会は、歪になった壁がそこに突っ立っているような有り様だった。悪魔が開け放ったままの扉も、もはや閉じる理由がない。生き残った壁の照明がぼんやりと当たりを照らしていた。
 カズラの前には、持ち主を失い、しわくちゃになった黒いメイド服だけが残っていた。
「だいじょ……」
 言いかけて、カズラは口を噤んだ。
 アンカリアが咳き込みながらもベレー帽を拾っていた。彼女は大切そうに埃を払い、かぶり直した。
 カズラは何も言わずに剣を引き抜いた。そして彼女を素通りするとウィンの側へ膝をつく。少年の容態を確認するが、特に問題は無さそうだった。
 カズラの美声は呆れていた。
「子どもを落とすって、打ち所悪かったらどうするの?」
「ごめ……けほっ、本(カルケール)を使うかと思ったから……」
 アンカリアはようやく呼吸を整え立ち上がった。
 カズラは器用に剣を持ちながらウィンを抱える。そして分厚い本を事務的に回収し、アンカリアへ投げた。
「あの程度、封印するまでもない」
「でも、アンシスを使いすぎたらカズラが……!」
「そう思うなら」
 アンカリアの言葉を遮り、彼は自分の喉を指差す。
「早くやってくれないと、心話術ができないんだけど」
「あ、ごめん!
 Gambir iubeo Ramulus 鼓動よ眠れ」
 カズラの持つ大剣、黒の剣(アンシス)は霧状になると、首輪のような紋様になって彼の肌へ溶けていった。
 人として死んでいるクチナシは、喋ると悪魔化が進んでしまう。
 死人に口無し、そして悪魔のごとく朽ちない、それがクチナシの由来だった。
 心話術というテレパシーは相手も術者であることが条件であり、一般の人間とは意思疎通が難しい。
 アンカリアはレインという、クチナシのコントロールと通訳を行う人間だった。
 そして彼女の脳に直接、魅惑の美声で辛辣な言葉が飛んで来た。
『人の心配してる場合じゃないだろ。君に死なれると、遺体を引きずって庭まで戻らなきゃいけなくなる。自殺行為は余所でやってね』
「はい……」
 下を向いた彼女はケースに本をしまった。
『反省は後にして。
 クチナシを武器だと思っていた時点で、アレは最近生まれた悪魔だ。ついでに、来る途中に妙な地面があったから掘り返したんだけど、見事に死体の山だったよ。
 つまり、まだ町に悪魔がいる。しかも眷族を造れるレベルだ』
 アンカリアは弾かれたように顔を上げた。
 悪魔には、殺された人間の蘇り方によって種類がある。

 知能を持たないただの異形
 生前の人格に擬態する異形
 生前の人格をそのまま持ち越す悪魔
 新たな人格を持った悪魔

 その四つのうち、異形はただ人間を殺そうとする。一方人格を持っている悪魔は、食人欲求と特異な能力を有し、人間を補食することで眷族をつくることができた。
 クチナシは人格を持ち、かつ、人間を食べていない悪魔が保護され処置を受けたものである。
 カズラもかつて蘇った人間だった。
『最初から不自然だった。
 住民を家から出ないようにしたら逆効果だ。隣人が悪魔に食われても気付かない。町長の屋敷も、役所を併設してるからって明るすぎる。電気なんて貴重品、どこから補っているのか』
 カズラは、アンカリアにウィンを預けた。そして腿の銃ホルスターに手をかける。
『そしてあの悪魔は、ウィンを食べようとしなかった。捕まえたように見せかけて、戦いから遠ざけていた。メリットが無くちゃあんなこと、悪魔は絶対にしない』
 彼は黒いマントを翻し、暗闇へ銀の銃口を向けた。
『町長は、グルだ』