キンセンカ

 花言葉:初恋 乙女の美しい姿 悲嘆


 ガーデニアまで、あと一つ街を経由すれば到着するだろう。
 夏の民はテントを畳み、軽快な音色を響かせながら行進していた。
 舗装などされていない道は小高い土手となっており、低くなった脇には見渡す限りの草原が広がっていた。地平線には山もそびえている。夜空に覆われたいつもの風景だが、祭り囃子が見えない光として照らしているようだった。
 アンカリアもベレー帽をかぶり、慎ましい胸をわくわくさせて混じっていた。
「もうちょっと近くに行かないの? 白芷(ビャクシ)ちゃん」
 アンカリアの隣で、儚げな少女もしっかりと歩を進めていた。
 行方不明だった冬の民、白芷。彼女の水色がかった白く長い髪は、氷のように溶けてしまいそうだった。瞳は金色に透き通っていた。
「い、いいのよ! 気が散ったら悪いもの! あいつ笛は苦手だったし!」
 そう言った白芷は、結ばれたばかりの茴香を見つめていた。
 彼女は、着慣れない夏の衣装に身を包んでいた。彼女の肌は雪のように白いが、目元は少し腫れている。
(白芷ちゃん、キャラバンからはぐれて怖かっただろうな。こっちで見つけれてよかった。茴香君ともまた会えたし)
 前方の鼓笛が今までと異なった調べを奏でると、白芷は赤い目尻を緩ませた。
「冬も夏も、休憩の合図は一緒なのね」
 白芷はキャラバンの先頭を懐かしそうに見つめる。
 その視線の先で、茴香は楽器を片手にきょろきょろとしていた。
 口を開こうとしたアンカリアの脳へ、カズラの必要以上に艶のある声が振ってきた。首を舐められたような、人に言えない感覚が彼女の背筋を走る。
 彼がキャラバンの最後尾にいるので仕方ないとはいえ、不意打ちには未だに慣れなかった。
『伝令だ。次に通過する町にカメリア班が居る』
 心話術でカズラはそれだけを伝えた。
 家族として、男女として愛し合うあの双子がいる。
 つまり、悪魔に加担する人間が確認されているということだった。季節の民へ危害が及ばないよう警戒しなければならない。
「……了解」
 眉間を狭くしたアンカリアを、白芷が覗き込んだ。
「どうしたの?」
「あっ、間違えた。なんでもないわ。
 それより茴香君が探してるんじゃない? ほら」
 昼食の支度をする民が行き交う中へ、アンカリアは彼女を送り出す。
 白芷を発見し駆けて来た犬、もとい茴香と彼女は照れくさそうに、幸せそうに笑っていた。
 つられて微笑むアンカリアの脳へ、再びカズラから心話術が飛んできた。
『あと、接待よろしく』
「え?」


 季節の民の食事は、基本的に保存のきく乾物や、塩に漬けたものが主だった。
 アンカリアが係から受け取った椀からは、芳しい香りが立ちのぼっている。粉を丸めた生地を熱湯で戻したものが、本郷の調味料を溶かした汁に浮いていた。
 彼女はサイコと同じラグに座った。
「煮饅頭は、聞いたことはあったんですけど、初めて食べました」
「そうなん? 箸の持ち方上手やから、てっきりあるのかと」
 サイコは胡座をかいていた。不思議と粗野な感じはなく、汁も一切飛ばさず食べている。まるで手本のようだった。
「母に教わって。意外に覚えていました」
 アンカリアも彼に倣い、椀を顎まで持ち上げてみる。すると、二本の棒に力を込める時間が少なくて済むことに気がつき、密かに感動した。
「サルビアはこれ、好きやったからねえ」
 サイコの、普段は上品に結ばれている口元が、饅頭に白い歯を立てた。それはどこか、見る者をやましい気分にさせた。睦言を囁き合う男女を見かけたような、女装を解いた男性を目の当たりにしたような、こちらが恥ずかしくなる部類のものだった。
 そそくさと椀へ視線を落としたアンカリアへ、サイコは深緑の瞳を向けた。
「カズラとは長いん?」
「えっと、わたしは試験合格してからずっとなので……それなりに」
「大したもんやねえ。彼、気難しいお人やのに、ずいぶん仲良うしとうなあ思っとったんよ」
「なんだかんだ優しいですよ。嫌われてはいない、と思いたいです」
「君が嫌われるわけあらへんよ」
 サイコは言い切って器を傾ける。口をつける前に、しれっと告げた。
「ぼくがカズラを見かけるんは、サルビアと組んでいた時だけやった。他のレインとあんまりに気が合わんて、ずっと彼女とだったんよ」
 汁を飲み干す彼を、アンカリアは驚愕して見つめた。彼女は今にも椀をひっくり返してしまいそうだった。かろうじて椀をラグに置き、サイコに詰め寄る。
「カズラ、そんなこと一度も……!」
「言わへんやろうね。そういうお人やろ?」
 サイコが椀と箸を脇へ置く。
 アンカリアはそこで初めて、彼の何かを探るような眼差しに気付いた。
「なにが目的ですか」
 化かすような狐目に負けじと、彼女は視線を真っ向からぶつける。
「そないなおっかない顔なさらんといて。せっかく可愛らしいのに」
「サイコさん!」
「しー。カズラに叱られてまうよ」
 少女の唇に細い指を押し当て、彼は続けた。
「安心してもろてええよ。ただのおせっかいやから」
 アンカリアはその手をはねのけ立ち上がる。そのままサイコの顔も見ずにラグから離れた。空の椀も放置して来てしまったが、これ以上頭首の話を聞いてはいけない気がした。
(あの人は全部知っていて聞いたんだわ。“おせっかい”以外の理由があって。
 ……カメリアがいるのは次の町だけれど、まさか。
 考え過ぎだわ。季節の民からそんな)
 肩で風を切るアンカリアは、拳を固くする。そんな彼女へ声をかける猛者がいた。
「アン! ビャクを知らねえか?」
 茴香の鬼気迫る、物理的にも迫る金の瞳にアンカリアは圧倒された。どうもこの熱血漢は、必死になると距離が近くなるらしい。
「み、見てないけど……どうしたの?」
「あいつ、昨日からなにも食ってねえんだ。このままじゃ倒れちまう。今日こそは絶対に食わせねえと」
 茴香はあたりを見回し、少女は伝令の内容を思い出した。嫌な予感がした。
「まさかキャラバンから離れていないよね?」
「多分な。離れた香は無いし……」
「香?」
「ああ。季節の民の身体には本郷の匂いが染み付いてるから、ちょっとの距離なら鼻で追える。
 嗅いでみろよ、あいつと同じだと思うぜ」
 彼が筋肉質な首を指した。
 アンカリアは言われるままに鼻を近づけるが、特に感じるものはない。
「全然」
「……わりい。外の人にはわかんねえって言われてた気がした」
「意味無い!
 とにかく、白芷ちゃんはわたしも探してみる……って、あそこ!」
 話題の少女が土手下でアンカリア達を凝視していた。黒い草原に白い髪は浮き出て見える。
 なぜか白芷は銃を突きつけられたように青ざめ、草原に駆け込んだ。
「ビャク!」
「白芷ちゃん! 明かりも持たずに……!」
 二人はその辺の提灯を引っ掴み、坂を下りた。
 草原に近寄ると、植物は一つ一つが異様に高く、茴香が見上げるほどだった。頑固に直立し行く手を阻んでいる。
「アン、気をつけろよ。この草すげえ切れるやつだ」
「茴香君も上を着た方がいいわよ」
「そうする」
 茴香は腰まで下ろしていた衣装を着込んだ。
 一本は細くとも、密集し過ぎた草木は光すら遮る。二人は群れを成す緑を掻き分けて進んだ。
 だが草原の密林で、いつの間にかアンカリアは茴香の姿も見失っていた。
「……茴香君まで? 白芷ちゃん! いたら返事して!」
 アンカリアは幽かな視界の中でも進み続けた。
「白芷ちゃ……わっ」
 スカートの裾がぐいと引かれ、彼女は尻餅をついてしまった。はずみで提灯が側に転がる。
 頭上を鋭い枝葉が包囲しているが、根元は意外に空間があった。
 アンカリアの黒いスカートを真っ白な腕が握っていた。その先には、氷柱色の髪が滝のように垂れている。
「こんなところにいたのね。大丈夫? 気分悪いの?」
 白芷は糸の切れた人形のように座り込んでいた。アンカリアが顔色を窺おうとしても、逃れるようにさらに俯いてしまう。
「……ごめんなさい、アン。
 “カズラさんと口づけしてしまったの”」
「え?」
 アンカリアは、衝撃を受けるなどではなく、ただ止まってしまった。
 白芷はいきなり立ち上がり、呆然とするアンカリアを置いて植物の壁へ埋もれて行く。
 やや遅れてアンカリアはその背を追いかけようとした。ほとんど条件反射だった。
「いっ……」
 無意識の彼女を叩き起こすように、指先へピリッとした痛みと、その髪より赤い液が滲んだ。
 アンカリアはそれを少し舐める。一息吐いて、ある意味棘よりタチが悪い緑色へ、慎重に手をかけた。


 鬱蒼とした草原から抜け出した茴香は、目を点にした。
「あり?」
 彼の前には土手の上で輝く御輿と、仲間達。
 首を傾げながら坂を登る彼へ、サイコが声をかけた。
「どないしはったん」
 隊列の最後尾で、何でも知っていそうな横顔が灯籠に照らされていた。彼のラグでは数人の御島一派が静々と、引っ切りなしの伝令を捌いていた。
「ビャクとアンって戻ってる?」
「こっちにはおらへんね。かくれんぼでもしとるん? あまり離れんようにしいよ」
 サイコは、ラグの誰よりも多く折り鶴を侍らせていた。忙しく見えないが、実は尋常ではない数が飛び交っていた。
「いや。なんか急に逃げられて」
「あらら、香を追えばええのに。冬は夏の中で浮き立つでしょう」
 サイコは器用に、運ばれて来た文字を読みながら耳を傾けていた。長い睫毛がキツくつり上がった瞳を隠し、子守唄でも口ずさみそうだった。
 ポツリと茴香が思い出したことをそのまま口にする。
「そういや、あいつ匂いしなかった」
 覚醒したようにカッと、サイコの鋭い目が見開かれた。一派の手も止まり、静まり返っているにも関わらずピリピリとした空気が流れる。
 サイコの尋問官のような形相に、茴香は子どものようにたじろいだ。
「な、なんだよ、どうしたんだよ」
「彼女達は一緒におるん?」
「て、いうかアンと俺でビャクを追っかけたんだってば。香を辿ったらここに来ちまったんだよ」
「……せやね。カズラ」
 黒い影が音も無く茴香の背後をとっていた。
 茴香が振り返ると、外套を着込んだカズラが表情の読めない顔で立っていた。
「えっ、カズラさん?」
 カズラとサイコは、茴香には聞こえない声で一言二言何かを交わし合う。
 そしてカズラは密林と言える草原へ飛び込んで行った。
 茴香は訳が分からずにサイコへ詰め寄る。
「なんだよサイコ。一体どうしたって……」
「茴香」
 それを遮ったサイコはゆっくりと腰を上げ、子どもへ言い聞かせるようにそっと口を開いた。
「つらいことになるかもしれへん」


 背の高い草原の中、マントを着ていないアンカリアの肩を、冷たい空気が撫でた。提灯が暖かく感じられていた。
 見失わないぎりぎりで、氷柱色の長い髪が木の葉に消える。暗闇に映えるそれは、こっちだよ、と招いているようだった。どのくらい進んだか見当もつかないが、白芷を一人で行かせるわけにもいかない。
 沼でも近くにあるのか、藻が腐ったような刺激臭が漂って息苦しい。耐えかねたアンカリアが鼻を摘んだ時、彼女の傷ついた指が氷色の髪に触れた。
 アンカリアはようやく追いついた白芷の肩へそっと手を置いた。
「白芷ちゃん、帰ろう?」
 彼女の呼びかけにも、白芷は背を向けたままだった。
「“カズラさんのこと、どう思っているの?”」
 心話術のように奇妙な余韻を残す声だった。
 そういうことをしても、わたしが怒る理由はないよ。キャラバンから離れちゃったし、帰ろうよ。白芷ちゃん。
 アンカリアはそう答えたつもりだった。
「ずるいよ、茴香君がいるのに。カズラを取らな、いで……!?」
 誰よりも驚愕した本人は手で口を覆った。状況が飲み込めなかった。
 アンカリアの喉が別の生物のように、勝手に言葉を紡いでいた。
 白芷が笑いを滲ませた声で煽る。
「あなたよりイイんですって。綺麗だし、身体つきも」
「最低だわ! 彼を誑かして、あく、ま」
 押さえつけても罵倒を吐き出す自分に、アンカリアは目を白黒させる。
 大混乱する彼女へ、白芷は振り返った。唇はつり上がり、その金の瞳は魔の光を携えていた。
「先に人のものに手を出したのはそっちよね」
 アンカリアへ躊躇ない軽蔑の眼差しが向けられた。
「なに言って……悪魔なの? なんで?」
「冬の御輿から離れた時に殺されたのよ。しきたりが頭に来て、飛び出したの。
 おかげで今は自由の身よ」
「食人欲求は? クチナシに間に合う?」
 アンカリアの思考を反映し、文章が支離滅裂なものになっていた。白芷だったモノは呆れたように溜め息をついた。
「質問ばかりしないで。人間のいがみ合う声が必要なの。そのためにちょっと細工をするけれど。
 ほら、楽になっちゃえばいいのよ。隠してるきったない気持ちを教えて?」 
 それは、ニタアと粘っこい音がつくような、儚さの欠片もない笑みだった。
 アンカリアは意思を受け付けなくなった喉を、両手で必死に——というふりをした。
「Sigillum de Ramulus 仮の名に眠れ!」
 新生したクチナシを封ずる呪文。アンカリアはわずかな望みをかけていた。
 だが無情にも、悪魔は小首を傾げた。
「…………なにかしたの?」
 白芷だった悪魔は、絶句した黒い瞳の意味もわからなかった。
 アンカリアの言葉が小さく掠れた。
「人を……」
「少しだけよ。怒鳴り声でお腹いっぱいになるってわかってからは、食べてないわ。
 さあ早く。まだ綺麗事を並べるって言うなら」
 白く細い指から、肉を裂くための爪が伸びた。
 その慣れた様子に、アンカリアは愕然と両手を降ろした。唇は強張り瞳は潤んでいるが、決して自分の命を諦めたわけではない。
「Gambir iubeo Ramulus 鼓動を解け!」
 大地へ叫ぶように頭を低くしたアンカリア。
 その上を水平に通過した黒が、視界を塞ぐ植物を刈った。
 悪魔はとっさに身を反らせた。
「カズラさん……」
 アンカリアの後ろから、橙のくせ毛と光るブラウンが現れた。
 悪魔は自分のはち切れそうな胸に、うっすらと走る横一文字の傷を見た。切先が掠めたそこは表皮がどろりと溶け落ち、しかしすぐに新しい皮膚で埋まっていった。
 邪魔な草木を薙ぎ払ったカズラは、身の丈もある大剣を悪魔の首元へ突きつけた。
「遺言なら聞こう」
「あなたこそ、“なにか言うことがあるでしょう”」
 身を反らせながら悪魔が囁くと、カズラの喉も勝手に動いてしまった。
「サルビアとモクレンを殺したのは俺なんだ」
「…………え?」
 時間が止まったようだった。
 しかし叩き切られ宙づりになっていた繊維が落ち、それを否定する。風は嘘くさい生温さだった。
 カズラは自分の声に呆然としていたが、剣を落としそうになって我に返った。口を押さえて事態を把握しようとするが、重心が後ろへ傾き、数歩よろけて後退する。
 その隙に、悪魔はあっさりと逃げ出した。
「……カズラ」
 片膝をついたアンカリアは、瞳を潤ませたままで何も言わないが、カズラから見ても明らかに困惑していた。
 当のカズラも混乱していた。一方で、憎悪が滲むのも時間の問題だろう、とどこか冷静だった。
 彼が永く秘めてきた、明かすことなく朽ちようとしていたものは、さらに本人を無視して声となる。
「謝って済むことなんかじゃないから、俺は——」
 最後まで吐露してしまう前にカズラは走り出した。それこそ逃げるようだった。
 アンカリアは緑に飲み込まれていく背中を見詰めるだけだった。
(ママとパパは悪魔との戦闘で殉職したはず……。
 カズラが、二人を?)


 草木を掻き分ける度に、鼻を刺す臭いは濃くなっていた。
 カズラは眉間の皺を深くする。
 やがて背の高い草原を抜けると、悪臭が肺をも侵蝕するように強烈になった。生者が嗅いだら、という例えだが。
 夜目がきく彼の前に、腐敗した塊がごろごろ転がっていた。家屋は扉が破られているが、槍などの村自体が攻め入られたような物は見当たらない。代わりに斧や鍬が肉塊へ突き刺さっている。最近見覚えのある光景だった。
「……争わせる能力か」
 彼の前に、間合いの倍はある距離をとって、いじけた顔の悪魔が佇んでいた。白芷の人格を持ち越し、白芷本人と言っても差し支えなかった。
「多分ね。
 ちょっと言い合ってくれれば、あたしは人を食べないし、みんなとも居れるのに」
 それはカズラが対峙してきた中で、最も悪魔らしい能力だった。
 小さな諍いは、火種のように燃え広がり集団を対決させる。人と人、村と村、町と町。その先に起き得る悲惨な事態は簡単に想像できる。悪魔が承知しているのかは不明だが。
「合流した近くの村も襲ったのか」
「あんなになるとは思わなかったけど。よほど仲が悪かったのね。少しでよかったんだから、あたしのせいじゃないわ」
 黙ったままカズラは漆黒の大剣を正面に構えた。
 白芷も真っ向から蔑む。
「許せない? どの口で言うの?
 あなただって誰か殺したんでしょう。悪魔みたいなものじゃない……ずるい、するいわ。自分はのうのうと生きられるくせに!」
 澄んだ声は怒りで淀み、咆哮となって張り上げられた。
 カズラは構えたままそれを聞く。きちんと見れば、毒でも飲んでいるような顔をしていた。
「この偽善者! あたしだって好きで悪魔になんかなったんじゃないわよ!
 人を食べないんだからいいじゃない! なんでよお!」
 白芷の瞳の光は溢れる涙に反射され、皮肉にも強く輝いた。それに共鳴するように稲光が主を囲んだ。空気が熱される。
 そして地を這う雷はカズラへ真っ直ぐ放たれた。
 しかし彼は軽く身を翻す。目を瞑ってでも避けれる、感情任せで単調すぎる攻撃だった。
 カズラの背後で、頑なに茎を伸ばしていた植物が消し炭になる。
 掠りもしなかったが、彼は致命傷を負ったかのように顔を歪めて口を開いた。
「……このままでは、いつか大切な人を殺めることになる。他でもない自分から守れなくなってしまう。
 必ずだ。
 どうして死ななかったんだろうって思うよ。それはずっと消えない。許してくれる人はいなくなってしまうんだ」
「一緒にしないで! そんなことしないわよ、あたしはただ……!」
 悪魔に成り果てたものの叫びは、何かが落ちる音に遮られた。それはカズラの後ろからだった。
 カズラは数秒後に自嘲するが、少女を期待して振り返ってしまった。
「ビャク……?」
 そこには、アンカリアとは異なる赤い髪——茴香がいた。腕は提灯を掲げたまま、彼は目の前に突如現れた雷光に腰を抜かしていた。
 カズラの無自覚の落胆と、白芷の絶望の眼差しをそれぞれ受けるが、茴香本人もそれどころではない。
 白芷は決して餌にするつもりはなかった彼へ“声”をかけてしまった。
「“茴香”」
 無意識の奥底を引きずり出す声は、癖のある能力だった。使いこなしているように見えるが、まだ日が浅い悪魔は多大な犠牲の上、ようやくコツを掴んできたところだった。
 茴香の喉が勝手に動く。
「なんだあの化け物」
 彼は白芷の感情を弄ぶような輩ではない。真剣だった。しかし鼻先を掠めた雷と、それを操る悪魔への恐怖が、他ならぬその魔力により引きずり出されてしまった。
 白芷だった悪魔は石のように固まる。そして身に受けた振動により、光る瞳から一筋、雫が落ちた。
 小さな体躯を漆黒の大剣が貫いていた。
「俺を恨んでくれ」
 カズラはまるで首を絞められたように、声を絞り出して言った。彼は悪魔が停止した隙を見逃すわけにはいかなかった。卑劣過ぎると自嘲する彼の美貌は、全てを内へ押し止めるために、酷く歪められていた。
 白芷の腕は力なく垂れ、腹部から溢れた黒い砂が足元へ溜まり始める。茴香に化け物と呼ばれ凍りついた仮面は、それでも彼を目に焼き付けるように瞬きすらせず、唇だけをわずかに動かした。
「会いたかったの……」
 カズラにしか届かない、幻のような声だった。
 彼はきつく目を閉じ中間物質を送り続ける。悪魔を滅ぼすクチナシ張本人が、その嘆きを聞き届けていた。
「わかってる」
「会いたかっただけだもん」
「ああ」
「おなかすいた……! でも、茴香だけは……!」
 泣きじゃくる白芷に、カズラは強く答えた。
「大丈夫だ。彼は必ず守る」
 白芷の細い指までもが崩れ始めて、茴香はようやく意識を引き戻した。
「カズラさん、待って!」
「来るなあ!」
 カズラが腹の底から怒声を吐く。
 走り寄ろうとした茴香は、肩を揺らして立ち止まった。
 カズラは柄を握り直して言った。唇を噛み切ってしまいそうだった。
「人を食べればクチナシにはなれない。現に呪文は弾かれた。
 悪魔になってしまったんだ。
 彼女が季節の民やお前を手にかける前に、処分する」
「……本当に戻れねえのかよ。もしかしたらさ!」
「手立てはない」
 茴香は縋るような情けない顔をしていた。
 カズラが残る悪魔の身体を横たえる。
 瑞々しく艶やかな髪が、汚れた地面に純水をひっくり返したように散らばった。下肢まですでに砂となり、突き刺さったままの大剣は墓標のようだった。
 カズラは茴香をじっと見る。ブラウンの瞳が放つ光は悪魔に似ているが決定的に異なっていた。
「嘆く時間はいくらでもあるだろう。泣かせたままでいいのか」
 感傷に浸る猶予はもはや与えられない。
 カズラがどんな思いでそう言ったのか、茴香は考える時間はなかった。
 ただ、今伝えなければもう二度と届かない。初めはその焦燥からだった。
「ビャク、好きだ! 叔父貴の式で会った時から、ずっと!」
 白芷の瞳は、茴香が初めて思いを告げた時のように見開かれた。
 そこから絶えず溢れる涙に、茴香は覚悟を決める。胸の内は全くもって整理されていないが、最優先すべき一つだけはよく理解した。
「負けず嫌いで気の強いとこも、優しいくせに素直になれないとこも好きだ!
 これからもずっとだ!」
 直線的にぶつけるような咆哮。それは白芷の姿が無くなるまで続いた。声が掠れても、喉が切れても、茴香は最後まで止めなかった。
 白芷の瞳は光を失って消える直前、微笑んでいるように見えた。


 やがて嘘くさい生温さの風が、降り積もった砂の山をつついて崩す。息を切らして膝をつく茴香へ、これは現実よと囁いた。